ロックマンを着て俺

大して期待はしていなかったくせに、ずっと待っていたロックマン
Tシャツを買いにユニクロに行った。棚に山積みになったロックマン。手に取ってみると、想像以上にチャチなできだった。どう着てもダサイ。でも買った。しかもセール中で一枚千円だった。ファミコンコラボシリーズ売れてないのか?マックで薔薇色Tシャツ売っていたけど、それよりもダサイ。てか、渋谷で何人も着ている人を見た。以前ギャルソンのハートのシャツを着ている(しかし微妙にダサイ)人を何人も見かけたことを思い出した。

 家に帰ってロックマンを着た。ダサかった。

 継続中のこの生活の中でゲームを沢山やった。今覚えているだけで、「PS2のメタルサーガ」「DSのFFTA2」「シグマハーモニクス」「DSのドカポン」「サンサーラ1×2」「アドバンスの桃鉄(当然99年)」「サガフロ2と俺屍は再プレイで途中」「世界樹の迷宮」今はDSの幻水。思考をしたくない時の、最高の友。俺はゲームが大好きだし、あまり期待をしていない。

 新しいこと、がないような気になる時がたまにあって、それは単に自分が不感症気味になっているだけなんだけれど、それと別の悪い時期が重なると、沼の中にいるような状態になってしまう。収入がなく、新しいことがない、むしろ、収入を手にすることすら困難だと身に染みて、思考をしたくない時の最高の友、しかもテレビのモニターに向うのさえ億劫でDSばかりやっていた。PSPを買ったら携帯ゲーム粘着に拍車が掛かり、人として駄目になる、と思い、今のところ自重している(は?)。


 本だって、そう、ここ数年は、好きなことは大抵目にしてしまったかのような気がして、それに随分と悩まされ、ながらも読む本、の中で佳作や秀作はあっても素晴らしい、と思えるような作品にはもう出会えない、というのはやはり錯覚だった。それを教えてくれたのは、連続して呼んだわけではないしなんとなく目が寂しくて読んだ、金井美恵子スガ秀実山形浩生、のエッセイや評論には様々な人物の固有名詞が登場して、既知の未知のその膨大な名前を目にしていくうちに、「まだまだ読みたい本が沢山あるなあ」と思った。

 好きになるような体験はもうないと、どこかで諦めていたのだ。しかしジュネや川端康成ランボージャコメッティやベルニーニやゴダールユスターシュやドライヤー、らに出会うことはもうないような気がする。けれど、やはり美しい作家や美しい作品はまだまだある。それについて考えている人もいる。前述した作家や評論家、他にも蓮實や浅田や石川や東や、好きだったり好きじゃなかったりする彼ら、の様々な熱情、定期的にそれを確認しないと、俺は駄目になる。俺の下らないソープオペラ/メロドラマには香水が必要なのだ。暇乞いのようなか細い幸福な時間が。

 25歳の俺は大きくなったらロックマン錬金術師になりたいって思うけど、やっぱり錯覚するにはもっと本を読まなければならないし、未だ、俺に棘を見せ付ける作品は山ほどある、棘を持った人も、薔薇みたいな人はいない、出会えない、にしても、未だ、俺は大丈夫だって、思う。


 自殺する予定はなかったのだが、自殺した友人のことを、ふと考えていた。地下鉄のホームで電車を待っている時に、轟音を鳴らし、二条のレールを飴色に光らせ、駆けてくる電車を目にした時に、飛び出したくなるような衝動が全身を駆け抜けた。しかし俺は一歩も動けず、全身に鳥肌を立ててるだけだった。アナウンスの声に促され、俺は、ゆっくりと鉄の塊の中に入って、開いた座席に座った。

 自殺っていうのは、風邪をこじらせてしまった結果のような気がする。ちょっとしたことで、それに至ったり、助かったりするから。未だ、俺、好きな人がいるかもって思うから、死なないような気がするんだ、けど。