君の好きな人生

東急の中にある花屋や、恵比寿のアトレの中にある花屋は目を引くのだけれど、素っ気無い花屋の花々よりも値段が少し張る気がする。ミニブーケや花のケーキやらは、明るいライトの前で行儀良く並んでいる姿は好ましいけれど、特に植物が好きな人にとっては、家に持ち帰れば素っ気無い代物になるだろう。

 久しぶりに服を買う。服を買うのは、いつでも久しぶり、という気がする。服飾費を稼ぐほど熱心ではないのだ、むしろマイナスであるのに、買ったいつもの古着屋でナンバーナインの激安だった全身にFUCK YOU!とプリントされたパーカー、フェルトレックの皮じゃないライダース。古着なので俺が買えるような値段になっていたけれど、それに合わせる服を買う余裕はない。それを着る特別な予定がなくとも、服を買うのは楽しい。服飾関係の職場で、と考えたこともあるけれど、毎月金を使って、その金を作る為に真面目に労働に従事する、と考えるとげんなり。中途半端にオサレな服を着て、そういった職場で働くなんて。

 数千円で買ったFUCK YOU! なパーカー、元値は2万だか3万だか。新品では買えない、買わないけれど、俺はそれを高いとは思わない。そういうものでしょ? ファッション・ビクティムとしての教育は通過している。楽しくビクティム人生を送りたい、と夢想はしていたけれど、そんなものよりもずっとおぞましい生活が、俺を招いてくれている。

 風邪気味の頭で課題をやっていると、ふと、何度目かの資格なんてとっても意味ないじゃーん、ということに気づき(本当に何度目だ?)、疲労が全身に押し寄せる。二十万をドブに捨てることを惜しむよりも、やるべきことは吐き気をもよおさない職場探しだ、無理だ、そうですね。

 大江の初期の作品群を読んでいるのだけど、アレゴリーによる自己救済に陥る前の彼の作品は本当に愛らしい。少しの粗や不恰好さはほぼ気にならない。読み返してみて改めて、彼の作品にはやけに同性愛の要素が出てくることを想起する。それが反体制の要素、とか彼の性向、ということではなく、自己愛の延長線上として、近しい他人を利用する為の性質として描かれているのは頼もしかった。生き生きとしている、しかも頭のいい少年を描けるのは数少ないだろう。ジュネの愛らしさ、とは違う、性格の悪い(勿論褒め言葉だ)少年の希少さ! 彼が後に自己救済に邁進する姿も、見方によっては好ましいものかもしれない。仕事暦の長い、人気モデルの人が「今後は俳優業に頑張っていきたいです」と口にして薄っぺらい(としかいいようがない、失礼だが)精神論とかを吐いているのに、モデルの顔と名前が一致していた学生時代は「堕落しやがって」と落胆を覚えたものだけれど(ミニマル・ミュージックのPV、美しいマネキンが行進して焼却炉に落ちていく姿が頭に浮かぶ)、「堕落しやがって」とは褒めるべきことだと、あの時よりかは幼くない俺は思う。おめでとう。一方的な友人の恒常性との婚礼を俺は祝う。実在の友人の婚礼も、俺は祝った。素直に祝った。

 表参道の並木は電燈のコードでぐるぐる巻きにされている。もうとっくに寿命がきている(と何年も前の雑誌で読んだ)老木の荒れた肌の上のコード、拷問を受けているようで、ライトアップされる前の方が趣がある。新しい服、老木、減る口座、とかそういったもので俺は暮らしていけるような気がする。

 そう、労働のために一生懸命頑張る自分を嘲ることが、後でできるのだと思えば、思えば?