汚い言葉を云って、って?

 今年一年は稀に見る辛気臭い年で、それもこれも労働のことばかり考えていたからで、これから先もそれは待っているから辛気臭いのも続いていくのは分っているけれど、自分の日記をふと読み返すと酷い有様で、一応自分でも引くことは書かないようにしているのにそれでこれかよ、ってな内容で他人事のようにこいつスゲー(あいたたただ)なと思いそれはそれで面白かったよ。

 大学の先輩が中米に行ってしまったという話を聞いた。ジャマイカ?とかそういったところらしい。二十代後半で旅に出る。痛いっすか?でも、俺はその人がちゃんと仕事(アルバイト?)をしていたことも友人が多い(と思う)ことも知っていたから、別にいいんじゃないか、と思った。生きていける気力があるなら、大抵のことはどうにかなる。気力がないってのは危険だ。俺自身が海外旅行、旅(笑)、に出るなんて想像すると、ほぼ詰み状態しか思い浮かばない。

 辛気臭い話はよそう、と思いながらも浮き上がってくるのは淀んだ空気、ふと、多田由美の、俺の超好きな『バルコニーに座って』という漫画の中で出てくる、映画の題名を思い出す。

『私に汚い言葉を云って』

 悲しい言葉は止めて、と自分自身に思うたまに。書き出した言葉を意識して、囚われてしまうから。本当に言いたいことは、大抵の人は書かない。書く人は小説を書くのに向いていないと思う。不信と、恒常性による親和との不和が恨めしく思いつつ、それこそが自分自身なのだと共依存のようにして付き合っている。

 そんな日々だって突然、ヴェルベットのファーストの幸福すぎるSunday morningのイントロが頭の中で流れ出すような気分になって、理由はないけれど、働かなくたっていいこと働く理由なんてないこと、もこれから時間は分らないけれどやっていけることも、そういった大抵の人が気に留めずに肯定している事柄、に拘泥している沼のような時間から浮き上がり冬空に首筋を撫でる風を意識できることは幸福としか言いようがない、花束のように脈打つ心臓を抱きしめる肋骨を意識する幸福冷え冷えとした寒々しい幸福。

 きっとそれは最近小説を書き始めたからで、自分にとって小説を書くことは殆どリハビリのようなもので、リハビリって発見が多くて楽しくって仕方がない(としばらくは感じていられる)し、早く秩序をもって残酷ささえ許してくれない混沌に跪拝していや暴言を吐かねばならないと思うと感謝したい気分になる。悲しい言葉を云ってもいいし汚い言葉を言ってもいい。甘い残酷さを期待しているようでないならば。好きなだけ、悲しい言葉を言って、って。