マリィ アンナ ルウルウ

 数ヶ月前に出版された、ジイップ著 森茉莉訳の『マドゥモァゼル・ルウルウ』の新版がやばい。中身というよりもその装丁が。

 黒、ピンク、金の三色で構成されて装画は宇野亜喜良。正直宇野亜喜良は才能はあると思うけれどそこまで(かなりいやな書き方だな)、とか感じている「こーゆーの」が好きな俺は、普段なら自然と点が辛くなるはずだけど、それでも素直に、すごく合っていると思った。アナスイの商品みたい。てかアナスイでこの本売るといいってマジで思った。
 
 それでページのはし部分全体が(小口とか)ピンク・パープルで、(戯曲でってのもあるけど)文字が余白が多くてすかすかな分、文章の右上にリボンやら尻尾の先が薔薇のトカゲやらバレエシューズやら鳥かごやらがピンク・ベージュやらで、読書の邪魔にならないように描かれているの。やばい可愛い。でも値段2600円だよ。買えるか。借りました。

 てか、それくらい出すなら「可愛いだけ」じゃない本買うよなーとか思った、けれど、作っている人が本の中だけでなくて装丁とかにこだわっているのって、「本」が好きなんだなあというのが伝わってきてうれしい。本の値段って、紙質とか大きさよりも単純にどの位売れて採算が取れるかとかで決められているらしいから(写真とかになると、それ用の紙を使うしまた話は別だと思うけど)、無駄に高い本を買う時は「お布施」と思わなければ割が合わないかもしれない。

 というよりも、俺は中身さえ読めれば折れ曲がっていても汚れていても構わない方なで(綺麗な方が有難いけど)、無愛想な古い本もそれが味だとそれなりにいとおしく思えるし、買ってきた美しい装丁の本も、すぐに床に直置き本タワーの一部になってしまう。これは多分俺が本棚を持っていないことが原因の一つだと思う。インテリア、なんて気にしないで「混沌としている感じがいいってことで」と自分に言い訳している汚い俺のワンルーム。本棚を迷いなく買えるような大金持ちになったら、豪華本を眺めるよりも所有する方に魅力を感じるようになるだろうか?

 三十歳の森茉莉は、この本を自費出版で百部だけ出版したらしい。限定○部の美しい本(当時の装丁は知らないけど)。素敵な響きだ。サバト館の本みたいなのを将来作れたらいいなあと、以前考えていたことがあったっけ。

 でも今は美しい本を作れるような生活の余裕よりも、生活、あるいは制作のことで頭がいっぱいで、今書いているものが途中なのに、些細なことに「不潔よ」なんて考えを持ってしまう女の子が主役の小説が書きたくなってきていて。

「不潔」なんて単語は酷く滑稽だ。今の俺の状況も滑稽だけれど。『マドゥモァゼル・ルウルウ』は男が書いたファム・ファタールや聖女や娼婦の話ではなく、女が書いた魅力的な女の子の話だ。そこにある大切な要素は軽蔑と傲慢だと俺は思う。俺はそういったものを割と多く抱えているような気がするけれど、「本」を読んでしまっているので、それとはいくらかの距離が取られてしまっている。蔑みは一概に品がない行為とは言い切れないばかりか、それは蜜のように甘く、その人の好みによってサッカリンにも和三盆にも体液にもなるだろう。

 女の子が主役になって、俺は未だ、「正しく」軽蔑できるだろうか? 寛容よりも蔑みのほうがまだまし、と思えるような状況は簡単に生まれる。他者への寛容は自分の幸福に、恒常性につながっているからだ。間違っていても、相手を非難すること、またその自らの行為に悔悛すること。「不潔です」と、小説や日記であっても、発することは中々難しく、面映ゆい。けれど、滑稽さを恐れるのもまた滑稽で、これから先も髭面で「準君不潔!(©ジャガーさん)」言って行かなくちゃとアナスイみたいな可愛らしい本を見て思う。髭面の俺は当然アナスイの持ってないけど。