外は生温く雨

ネットで集中講義を受けながら、聞いているのは頭半分、この結果が達成感しか意味しないだろうことは予想がつくから、相手から顔が見られないことを幸いに、昔買った漫画を見ながら受講。いや、多分真面目に、真剣に受講していてもすぐに別のことを始めてしまうだろう。授業中も、それが好きなものだって、絶えず手やら興味の先を探し、振り回していた。ノートの中央に線や丸が幾つも生まれ、気分が楽になる。抽象画のエスキースを描いている、かのような。

 講義が丁度休憩時間に入った時に知らない番号から電話があった。俺は多少の期待を胸に電話に出た。寝て薬を飲んで金を恵んでもらうお仕事。あ、一応ボランティアってことになっているのか。数年前に、やっぱり無職だった時に登録をして、診断で落とされたぶり。そして、電話口の明るい女性の質問に正直に答えていくと、少し待たされ、大変丁寧に登録の全段階で不採用だと告げられた。そうだ、数年前のことを思い出せ。

 思い出す、丁度感傷的な漫画を読んでいた、そのよくできた漫画の内容、詩的な表現が俺の私的な、卑近なメロドラマになって鮮やかに蘇る。自業自得だか代償行為の代償行為の代償だか知らないけれどとにかく、俺はツケを払う。それは別に嫌なことではなかった。しばらくぼんやりしていて、ほら、講義が始まる。PCからたどたどしい―生徒にレジュメの間違いを何点か指摘されてしまった―恐らく経験が浅い献身的な女性が喋っているよ。テキストに目を落としながら、閉じて指で栞をしていた連載物のメロドラマを再度開く。美しい登場人物に感情移入することはないけれど、彼らは俺の記憶を想起させる。メロドラマメロドラマメロドラマ。私的な卑近な、自己の中でしか成立しないメロドラマ。

 過去の自分の姿が浮かんでは霧散し、俺は仕事を辞めてよかったと、理解した。敬意を抱く人から承認を受けた時のような、言語化できない安堵で、空気を、温度を一切感じないような気がした。いや、単に冬から春に近づいているだけだ。服を脱ぎたくなった。脱がなかった。どちらでも同じだと思った。そう感じられる俺は大丈夫だ、と。

 パソコンのモニターから目を離すと、壁に貼っているサイ・トゥオンブリの線画に近い抽象画が視界に入る。感動的な幼児の落書き、ガービッジのキラキラしたアルバム『Beautiful Garbage』のように自由なそれは、先ほどまで目にしていた美しいメロドラマのように、俺を安心させる。それが長くは続かないことは予想がつくけれど、仕事を辞めてよかったと、光芒がはらはらと目の中に咲いた。美しいと感じられることが、軽蔑できることが、許せることがこんなにも幸福なのだと思い出せて、私的なメロドラマは山場を迎えていたのだが、集中講義を受け持っている女性は自分の責務を全うしようと、拙く、一生懸命に名前のない、に等しい生徒たちに呼び掛けていた。

 三日連続の集中講義を終えたら、彼女の声を聞くことはおろかその名前を目にすることもないだろう。自分の仕事に誠実な、好感を抱ける(嫌味ではなく)彼女。それを思うと私的な感情が薄まっていく。俺は人間で、物事を簡単に忘れるし、何かの拍子で思い出してしまうこともあるのだがけれど、やはり、簡単に忘れるのだ様々なことを俺は、忘れてしまう忘れてしまう。忘却は恩寵のように神々しい。霞がかったナルシス・タナトスディオニュソスの舞踏が頭に浮かび霧散すると、ぬけがらのような不抜けた頭は恒常性と逢引をして、ひんやりとしたフローリングを揺籃に身体を任せ半開きの口からこぼれた唾液は透明、水のように透明で、調子になってたらし続け、タイルの上でてらてらと光を反射し、すぐ横のパソコンからはたどたどしい声がする。彼らや彼女たちが恥ずかしいだなんて思えない