地球は青い、そう

東浩紀の二作目の小説『クォンタム・ファミリーズ』を読みながら、数日前に読んだ、アメリカの「皮肉のきいた」ベストセラー小説を読んでいたことを想起した。普段読まない小説を目にすると驚きがある。しかしその驚きよりも、苛立ちや倦怠が勝る場合のほうがずっと多い。


 この小説では並行世界の存在やら他人の記憶の共有やらが可能な世界での話で、それだけでもう俺にとってはいっぱいいっぱいなのだが、何よりも文章が、久しく目にしない「感じ」だった。前後の文章やら筋は説明しない。面倒くさいのもそうだが、それがあったとしても、すごいなあ、と思った。例えば

「わたしは旅をすることにしました。
 このような気分のときは、人は旅をすると思ったのです。
 十二月に入り、関東平野でも厚手のコートが必要になり始めていました。わたしはまず南に行き、季節とともに北上することに決めました」

「ぼくは待った。
 永遠と思えるほど待った。
 そして着信音を耳にした。
 死体の下から鳴る着信音を耳にした。
 それはまちがいなく友梨花の着信音だった。
 友梨花の好きなテレビドラマの主題歌だった。
 僕は泣き始めた。涙を流し始めた(後略)」

「彼らは『物語の終わり』(本文では二重かぎかっこではなく太字!)に向かって車を走らせていた」

 特にすごい、と思った部分を引用したが、どうだろうか。これを読んでも何も感じない人ならば、それなりに楽しめるのではないかと思った。実際、俺も一応は最後まで投げ出さずに読んだのだ。世界の関係や登場人物の設定に疑問が残っているものの。そもそもその疑問を解決したい気持ちは湧かなかったが。俺がSを苦手なのは、「そういう設定だから納得してよ」、と読者に強要するからだ。新たな可能性を見せる設定が世界を矮小化しているように思えるからだ。いちいち「え、何で」と思っていると文章への没入を妨げるし、何よりSF関係の著作で、その文章に色気を感じたことがないのだ。色気さえあったら、設定がどうでも構わないのだけれど、俺が求めているものと彼らが求めているものはあまりにも違うのだろう。構築、再構築できる「かのような」ものが好きな彼らとは。おまけにこの小説にはメルヘンポルノバイオレンスがあるし、テーマは家族の再生、みたいなことだし、多くの人がそれなりに楽しめると思う多くの人が。

 ところでこの小説はPCエロゲーの人気作から着想を得たらしく、そのゲームの登場人物の名前をそのまま使っている。俺は未プレイだし、これからもプレイすることはないだろうが、(この小説でも重要な役割を果たす)「検索エンジン」のおかげで、大体の流れは知っている。というか、俺は小説の批評評論等は書籍化された文章として読むのを好むが、ゲームの感想やレヴューというものはネット上にあるものを好んで読んでいる。文芸批評系のサイトよりもずっと数が多いし、何よりそれらのゲームサイトの一部は、読みやすい、読ませる文章を書いているのだ。読みやすいというのはとても重要だと思う。結局のところ、誰だってあまり魅力を感じない文章に長々と付き合うほど、暇でも忍耐強くもないのだから。

 この東の小説を読む前から、彼の参考にした(と自分でどこかで公言していたはずだが、というか名前もらってるし)エロゲーやそれ以外のソフトにも、並行世界とか時空転移とか、そういったSF系のモチーフが登場しているのは知っていた。エロさえ入っていればどんな筋書でもいいよ、って日活ロマンかよ、というか、エロゲーもやってみればそれなりに楽しめるのではないかな、と思うことがあるのだが、それよりずっと強く、俺がエロゲーやギャルゲーとかライトノベルとかに入り込めないと感じているもの、それは「万能感」「全能感」「感情移入」といった要素が、これらの作品には多量に含まれているのだろうと予想されるのだ。箱庭の王様。とか言いつつ、俺もRPGとか人形とかが大好きで、そういうものに対する愛着こそ箱庭の王様の最たるものだ、と自覚しているのだけれど、俺のそれらに対する愛着には常に諦念や執着が入り混じって、自分はゲームの世界の住人ではないし人形はどうせプラスチックや泥や陶器で出来ていてしかも好きな時に誰にも咎められずに処分できるだろう、という気持ちを抱いているのだ。

 SFや(ポルノやバイオレンス付き)メルヘンを楽しめる人はそういった要素について、俺みたいに過剰に反応したり、無反応だったりしないのだろうなと思う。これはそのまま実社会での態度にも繋がるような気がする。或る人にとっては、世界に対する猛烈な違和感が、疑似世界への共感を妨げるのだ。俺も「普通に」SFみたいな設定を楽しみたいのだけれど。