君が見せてくれた自慰が好きだったって君が

 色々と良い方向にはいかず、生活の大半の布団の上で過ごしていたのだけれど、重い腰を上げてブラングィン展に行く。

 幸福な絵画、絵画と言う表現形態と若き画家達との蜜月の結晶、のように見える作家たちの一連の作品を目にすると、眼福という言葉が浮かぶ。勿論彼らの時代にも闘いがあったのは当然なのだが、キャプションにより自立して、アートワールドでの椅子取りゲームに参加する、堅牢性の脆弱な祝祭に比べれば、ずっと。

 でも、これは俺が今の時代に美術作品を制作していないから言える言葉でもあるだろう。みんなが、好きなようにしているのを見るのが好きだ。とはいっても皮を被り生存権の確保を声高に主張してばかりいるのは辟易する、のだが最近は短気な俺が腹を立てる回数が減ってきているように思えて、これはとても良くない兆候で、今の世界に足りないのは悪罵。罵声の向かう先は結局は自分の品性であるから(それを自覚しないことも、それはそれでいいと思う)、もう少し俺は怒りを表出するべきだそれが、自然だと思うなら。

 彼の労働者に関する絵画は正直興味がないのだが、ウィリアム・モリスの工房で働き、装飾やポスター制作に携わっていたブラングィンの色彩、構成感覚は素晴らしい。特に『海賊バカニーア』や『白鳥』におけるアールヌーヴォー、印象派的な曲線、淡い処理とフォーヴィズム(に影響を与えたセザンヌのような)的な省略と荒々しい筆致の混交は美しい。不自然な大旗の赤や咲き誇る暖色の花々は、遠心性と求心性の理解であって、大衆的、ポップ、という言葉がふさわしく、好きだ。

 また、好きな画の場合は実際にその筆致を目にすることができるのが嬉しい。俺は展示における体験、参加と言う要素に信頼を置いていないけれど、決してカタログに載らない生の筆致は、体験が可能になるかのように魅惑的だ。

 展示から足を離れると、襲う昼の陽光。駅に向かいながら、今日の日がカートが自殺して少し経って、また、もう少し経てば自分の誕生日なのだと思う。彼の年齢まであと二年弱、といったところだろうか。あと二年弱と思えば、だいぶ気が楽になる。こんなロマンチックで頭の悪い発想に本気になっている訳ではないけれど、気が楽になるのは事実。

 とはいえ、自殺という言葉のはしたなさについて考えると、俺はそれが自涜に似ているからだと思う。他人の自涜におぞましさを感じない期間も、それを許容できる対象も限られているだろう。人々は自殺にも自涜にも少し厳しい、が、それでいいと思うし、俺も少し厳しい。

 あと二年、と考えると、真っ先に思いついたことは、全身に花々のタトゥーを入れたいという欲望だが、数百万かかるだろうから実現は絶望的だ。でも、毎日自分の身体を見るたびに、花々を目にできるなんて、幸福じゃないか?

 以前も書いたけれど、ピンポイントならば女性は華や蝶といったロマンチックなモチーフ、男性ならばトライバルといったものが似合うと思う。でも全身(上半身の大部分)に入れるならば、女性は機械的なフォルムの線、男性は花々が似合うと思う。

 これは女性の身体には乳房があり、顔には化粧をするのに対して、男性にはその要素がないから思うのだ。花と女性や線ばかりの男性は相性が悪くないように思えるかもしれないが、悪い過剰になってしまうだろうと予想する。

 もっとも俺が日常的にあくまで男性として化粧をする(成功例)を知らないだけなのもあるが、やりすぎるのであるならば、女性はマテリアル・ガール、男性はフラワー・チルドレンが美しいと思う。

 ファッション写真に限定するならば、男性の化粧にも十分美しいものはあるけれど(乳房は簡単に取り外しできない)、それにはヘルムート・ニュートンが映すグラマラスな女性の腋毛のような感慨を覚える。慣れの問題かもしれない。それらを心から受け入れられれば、やりすぎたマテリアル・ボーイ、フラワー・ガールも愛おしいと思えるようになるだろうか。

 カットモデルとかあるのに、彫師の世界は練習をどうしているのだろうか?以前雑誌で師弟関係を結んだ人同士でやっているとか書いてあったのだが、俺、彫師を目指すわけにはいかない。脳内お花畑はミイラになりかけの花々が体液を出して埋葬を待っている。

 駅で薔薇の花を買う。薔薇は美しいから好きだ。ドレープを見つめながら今日はもういいと思う。