犬が喉元飛び込めばコントレックススフィンクス

久しぶりに訪れた生温い昼、服を脱いで、コントレックスを飲む。ミネラルウォーターを常備しているわけでも、特に好きなわけでもないのだが、コントレックスはたまに飲みたくなる。砂鉄が混じっているみたいな(実際ミネラルが豊富だが)、違和感のある硬水を嚥下する、あの感覚はたまに恋しくなる。

 また、裸でミネラルウォーターを飲む、というのが、何だか健康的な感じがするのだ。成分が身体に染みわたっていくような、そんな気がする。実際、そういったイメージをすることが身体にもいいだろう。水道水で飲み下すサプリメントよりも、気分を良くしてくれる。

 自分の家だからとはいえ、いつまでも裸でいるわけにもいかない、のだけれど、物が多くて淀んだ空気の俺の部屋の中に、コントレックスはとても合っているように思えて、ペットボトルを握ったまま掛け布団の上腰を下ろす。清潔な部屋で管理された水分を口にするなんて、味気ないような気がしてしまうが、どうだろう。かといって、俺が『水いらず』の女の子のように、シーツと皮膚との友情を楽しんでいるわけでもないけれど。

 軽く握った手のひらは熱を奪われ、ぼんやりと、視界に入る自分の身体、奇妙な形をしているように思える。骨っぽい部分と、肉、皮っぽい部分。元々、人の身体なんて見れば見るほど奇妙な形に出来ているのだけれど、久しぶりに自分の身体を見て、こんな身体だったっけ、と、興味深く観察していた。今更、骨の上に肉が乗っているなんて、不思議だ、とか思いながら。

 幼少のころ、家族で芝の方で食事をした帰りに、車道で犬の死体を見た。車道とはいっても、歩道にとても近い場所で寝そべっていたダルメシアン。ただ、その頭部は不自然に、綺麗にもぎ取られており、蜜がかかった紫キャベツ色の肉をのぞかせ、くすんだ象牙色の骨が、遠慮がちに飛び出していた。

 その光景を凝視していた俺に、父が「おい、行くぞ」と大きな声を出す。死体よりも父の方が恐ろしく、俺はその声に従った。歩いてバス停まで向かう途中、家族の中で誰も死体の話をしない。首なし犬は多くの人々に黙殺される。数週間後、たまたまその場を訪れる機会があったのだが、当然、犬の姿はなかった。

 思い返しても何だか不自然な気がする。首を失った、美しいダルメシアン。悪趣味なファッション広告の一部分のようなその姿は、部屋に置きたくなるような愛らしさがある。頭部に帽子をかけ、インテリアにもいいと思うのだけれど。白地に黒ぶちの、可愛らしい毛。

 都内では野犬の姿を目にしない。いつから野犬の処分が始まったのだろうか?のら犬って言葉はいつから死語になったのだろう?彼らが綺麗に(本当に綺麗に)処分されるのは主に狂犬病の問題があると思うのだが、首輪をしていないと撲殺(薬殺?)されるなんて、都会のわんちゃんは皆、優しいサディストのご主人様なしでは生きられないらしい。大変ですね。

 犬は小型犬よりも、大型犬の方がずっと好きだ。小型犬は飲みサーに入っている要領(容姿)がいい人、みたないな感じがして、ちょっと疲れる。嫌いとかじゃないんだけどね(スゲーキモイ偏見)。犬ならやっぱり大型犬とか、狩猟犬の方がかっこいい。ペンダントトップやステッキの先についた犬のモチーフは、どれも凛とした顔つきで、牙の白さのような清潔感をたたえている。愛玩用に改良されていない犬の方が、ずっと魅力的だ。というか、単に俺が、犬そのものに関心が薄いからか。犬よりも猫が好きだし。

 猫の中でも、とりわけ魅力的なのがスフィンクスだ。ほとんど毛が生えていないその姿は(あんまり好きじゃない)チワワに悪魔が取り付いたようでキュート。陰険そうな顔、骨ばった身体と、柔らかい臓器が詰まった無防備な腹部とのコントラストがキュート。首のないダルメシアンよりもキュート。

 球体間接人形の作品を見ていると、拷問を受けているかのような人形達に出会うことがある。針や内臓が主張する、それらの作品に俺はあまり良い印象を抱かない。確かにあまりよろしくない趣味を持った、俺の目には優しいのであるが、拷問を受ける/執行する自由を奪わないで欲しい。やるならダルメシアンの死体のように、広告の中にあってもおかしくないようなスマートさが必要だと思う。逆さ吊りになって解体されるブロイラーよりも、屠殺場の酉の方が、痛ましい上に愛らしくないだろうか?

 俺も、骨の上に肉が乗っているんだ、幸福だろ?肋骨に抱かれ、心臓が花々のように脈打っているんだ、幸福だろ?そんなことを考えながら服を着る。