アダムーとイヴのサイコロジーベイビもぎたての恋をダウンロードして

集中力がない。何かをしている時に、しょっちゅう別のことを考えてしまうし、別のことをしたくなって困る。小さいころから、落ち着いてなんていられなかった。

 一人で家にいるときに、音が鳴っていないと嫌だ。多少、集中力を求められる時でも、何か音楽をかけていないと気が済まない。無音には、耐えられない。

 のだけれど、気分が優れない時には音楽ばかり聞いているのが苦痛になってくる。音楽を止めると、我に返った、かのような、つかの間の内省が訪れる。

 先日、ipodに新しい曲を入れる為、いつものようにituneのライブラリーをAtoZで見まわし削除の候補を探していた。もういい加減消す曲はないのだ、と思いつつ、アニタ・オデイの曲を全てゴミ箱に移し、つつ、何をしているんだろう、と思った。新しいipodを買えば、2万曲以上入る。購入資金の問題、ではなかった。


 『失われた時を求めて』の文庫を高校の時に買って、以来50ページより先に進んでいない。もうすぐ十年選手になってしまう。年に何度か、その存在が頭をよぎるのだが、よぎるだけ。単に根気や集中力がないのも原因ではあるが、それよりも、読んでしまいたくない、これより他の本を読まなければならない、と確信に近い思いを抱いている。失われた時よりも、失われた欲望を求めて。

 予め失われたものなどない、と思うと、鎖骨に水が溜まるような、気分になる。欲望について思いを巡らせると、自分が出来の悪い機械のような気分になり、居心地が悪い。もっと品質の良い機械に憧れていたのだけれど。

 こんな時に聞きたくない音楽は、グールドのピアノかジョアン・ジルベルトのギター、なのだと思い、グールドのピアノを聴く、と集中力が多少戻ってきたように思えた。優れていない雑音や優れた雑音は思考を助けてはくれない。その代わり、彼らが俺の欲望の代弁者となってくれる。でも、いつまでもノイズに甘えるわけにはいかない。感情移入してしまう音楽ばかりで過ごすこともできないが。というよりも、こういった愚鈍な二項対立を思い浮かべるのが良くないのは分かっている、のだが。とにかく、解決策は音楽を聴け、ということになる。削除や処分についての回避よりも、か細い欲望ならば、鎖骨に注がれた水たまりのように動かずに見守らねばならない、ということにして。

 届いたmarinoのCDを聴く。ヘタな声の女の子の打ち込みキラキラポップ。久しぶりにこういった感じの、「新しい」アーティストの曲を買った。半分はヤスタカがプロデュースしていて、中期capusuleの『キャンディー・キュティー』や『super scooter happy』の頃の雰囲気で(プロデュースした曲はもっと今っぽいけど)「ダサいけど……可愛いじゃねえか!」ってな感じでいい。もう半分の曲はハヤシベさんが作っているのだが、ハヤシベさん、本名で検索しても情報がヒットしない。曲はコニカモが今風になった、感じでかなり好みなのに! ハヤシベさん! いいから早く仕事してくださいいい!(は?)

「エリントンと女の子の声以外の音楽はいらない」って言っていたカッコつけ君みたいな気分に数時間はなっていて、それが止めば別のCDを借りて/注文して、我に返る、かのような瞬間は存在するけれどとにかく、やはり、音楽を止めないで。かっこいい女の子が「いい曲を覚えるよりも、腕のいいDJを覚えておけばいい」と言っていて、俺はかっこいいなあと思ったのだけれど、俺はかっこいい女の子、っぽい方面ではないので、腕のいい、顔のいい、人を覚える「キラキラ」した役目はそういった人たちに任せて、アップグレードでもダウングレードでもないような作業を。