リハビリコント

 仲正昌樹の『Nの肖像』を読む。著者が以前、壺を売っていた新興宗教団体にいた頃の、自伝的な内容の本。彼の他の著作はそこそこ目を通していたから、彼がその団体に所属していたことは知っていたけれど、何で「宗教なんかに」と、思っていた。そこには予想通りドラマチックな出来事なんてなく、風邪をひくように、多少の好奇心と足場の悪さで感染する様子が描かれていた。

 読んでいて面白いな、と感じたのは、その他の著作と同様に、私情を入れず、入る部分では予め留保をつける、といった神経質な職人ぶりで、入団して数年後、滅多に会えない偉い人のお話を生で聴いているのについうとうとしている仲正は、そんな自分と教団への醒めた視線を送りつつ、他の知らない信者からそのことについての陰口を叩かれると

「だったら、その大事な時に、よその不信仰者の噂をして、気をそらせているお前らは何なんだよ! そんなこと言って、信仰上の優越感に浸りたいのかよ!」

 と憤慨する(場所が場所なのでそれを声には出さない)。また、その団体関連の新聞社で働いていた時も、そういう団体の新聞にも関わらず、プロパガンダ記事に「こんな記事をかいたら○○(所属団体)も馬鹿だと思われる」といった趣旨の発言して同僚と衝突しており、正当性の高い判断としか言いようがなく、面白く、また、読書中に絶えず居心地が悪かったのは、仲正の著作が惹起する自分にも通じる、居心地の悪さへの衝突と折り合い、だけではなく、その直前に読んだ村上龍の対談集に因っていた。

 その、十年以上前にされた、浅田彰と対談している部分がある。難航していたらしい村上の映画に対しての、浅田による解説文章を引用して村上は「おれ、本当に涙がにじんだもの。今でも覚えているよ」と言い、続けて、

「才能というのは、子供っぽい欲望を保ち続け、それを貫き通すためにはあらゆる妥協を排していかなるコストもリスクも引き受けてみせる意志だ」と。本当に元気が出る素晴らしい解説だったな。

 この村上の発言に浅田は

 それは僕にそういう才能がないから、憧れを含めて書いているわけよ。

 とスマートに(!)(?)返し、村上から「欲望の問題ではなくて、浅田君は頭が良すぎるから、本当は何かが見えちゃうからでしょう」と言葉をもらう。
 浅田は語る。

 批評家にならざるを得ない人って、そういうところがあるじゃない?早くわかった気になっちゃって、早くあきらめちゃう。
 ところが、わかったような気もするけれど、まだ何かあるんじゃないか、どうしてもあきらめきれないから、もうちょっと頑張ってみよう、とそういう欲望をやっぱり才能と呼ぶんだと思うよ、それで、ある時点ではバカみたいに見えるようなものを作っちゃっても、後から見ると、あれはああいう意味があって、今こういう形に展開してるんだな、と分かるようになってる。
 そういう意味で、こんどの映画にも多少の不安を持っていたんだけど、単純によかったと思います。

 対談と言う責務を果たし、主張もする姿に、俺は、浅田の文章を読むときに感じる、頼もしさとうすら寒さを覚えていた。また、同著の柄谷との対談で、柄谷が今(当時)、文芸批評をしていないという発言の後で、村上が「浅田君だって、あの人何なんだろうというとよくわからないですからね」と言葉を返し、柄谷が

「その筋の人ならだれでも知っていますよ。ただ、彼は僕のようにパラノイアックでないから、本を書かない」と発言をする。

 浅田がパラノイアックでないか、ということは問題にしたくないし問題にはならないだろうが、浅田のスマートな文句を付けられない姿勢は、俺の内から声を呼び起こす「俺は彼が大好きだがしかし俺は彼になりたくないし彼になりたいとかなりたくないとかいう問いそのものがぞっとする」

 俺の大学時代は、新興宗教に入る代わりに、文学、とアート、特に抽象表現主義やミニマルーアートにかぶれていた。フレイヴィン、ルイス、ジャッド、ポロック、スティル、ニューマンといった芸術家達に、信仰に通じるような感情を抱いていた。暴力的で高潔(と言っても構わないような気がしていた)で、知的な彼らの作品。でも、俺は彼らのような作品を作ろうとはしなかったし、評論に携わろうとも思わなかった。欲望の、熱情の無さが要因ではある、けれど、俺はもっと、別の物が欲しかった。スマートな態度に関する飢餓のなさにどこか興が覚め、かといってスマートな態度をとる選択肢が含まれないような作品に関しては苛立ちの芽を生やし、いつでも、別の物が欲しがっていた。信仰とは、そういうことじゃないのか、と思っていた。彼らは面映ゆくないのかと、思っていた。面映ゆいわけがない。俺は自身の不信仰を断罪するために、他人をだしに使っているのだから。

 たまゆらの美を秩序でとらえることが、最も「スマート」なのだと信じ、川端康成と、ジャン・ジュネを敬愛した。彼らは逃げ去る。詩情だけを残して逃げ去る。言語に依拠しながらも他人の言語を跳ね付ける。

 もとよりさまざまなものから、みじめに、要領よく、逃げ去るばかりの俺には、単純に親近感が湧いた。逃げ去る、中絶される。狂熱も断罪もポリ公と優等生に任せて、任せるのか?優等生(つまり集め物が好きな男の子)だった俺は未だに優等生的でない人に若干の違和感を覚え、また、その真面目な、非をつけるべきでない部分に苛立つ。優等生的行為で得た思考を餌に逃げ出す為の火を焚きつける。たまゆらの狂熱、汚い水たまりの花筏、といった言語や思考を吐きだしてその場をしのぐこの日記、のような行為。信仰から遠く離れて。

 彼らのような泥棒になれば、いや、泥棒になってもいいのだ、と、思うと、多少、気が楽になる。優等生や優秀な機械ではなく、覚悟を決めなければならないのかもしれない。泥棒、他者への暴力、を俺は「しかし、正当性がない」と常々思っていたのだけれど、世界に撫でてもらうことよりも、暴力の方がセクシーなことは明白だ。暴力からは逃げちゃ駄目だ。泥棒からも逃げたらどうするんだ。

 とかいう思考を経て、リハビリのために小説を書こうか、という気分に、たまになる。