声がしない方へも

 2005年に発行された、峯村敏明の『彫刻の呼び声』を読む。美大教授の彫刻に関する評論集で、古いものは30年前にもなる、というか収録されている物の大半が70,80年代に記されており、ドナルド・ジャッドに関しての言及が目立った。

 彼の名前を意識したのは初めてだったが、それらは既視感のあるものが多かった、というか彼と似たような意識で彫刻を眺めていると言っても失礼には当たらない、ようにも思える。

 一番最後に収められた最新の、そして分量にして15ページ程のエッセイ、と呼ぶのが相応しいような文章に俺は一番興味を惹かれた。



「端的に言うと、彫刻は他のいかなる芸術にもまして非関係(ノン・リレーション)を志向する心的欲求の発露ではないか、ということである」


 この言葉に分量を割き、峯村は慎重に使用している。それは彫刻、というよりも現代における立体作品の多くが関係性によって成立しているからだ。そして、峯村はそれとの距離をとっている。(現代における)彫刻を領域としている(と思う)にも拘らず。


「公共空間に転がる産業廃棄物」と友人が呼んだ、素朴すぎる意識による作品を「会」によりまた「スポンサーの意志」と言うのが相応しいような要求により保持しているような作品もあるにはあるだろうが、それらについてはここでは言及しないし、その説明も必要ないだろう。

 峯村のエッセイに戻る。

「ジャッドの三次元作品は絵画の脱幻影主義を極限まで追求した果てに出てきた形式不問の所産であるから、出自からすれば私の言う類彫刻の一典型である。しかし肝心なのは、彼の過激な反幻影主義が、関係、構造、、反復の身体性といった知的理解への道筋をことごとく退けようという欲求につながっていたことだろう(中略)そんなジャッドの理屈にならない絶対の叫びこそ「実存するものは実存する」という発言に他ならない。存在するもの(存在者)を一切の関係の網目から切り離して、そこに「存在」だけを読み取ろうというのである。いや、そう言ったのでは誤解を招こう。ジャッドとて、この世に存在するもろもろの人や物や制度が様々な関係のなかにあることを否定するほど没論理的であったとは思えない。彼の発言はあくまでも作品に托したいと願う超越性(もし超越性とかイデア性といった概念がヨーロッパ的だというなら、絶対性と言い換えてもいい)から呼び起こされていると考えられるのである」

 絵画から抜け出してきた彫刻、その「存在」について峯村は語る。

「存在に出会うこと以上に彫刻の特権を享受し、彫刻の無情の喜びに浸る場面があろうはずはない。なぜか。存在とは関係の壊れだからである。存在自体は存在しない。盤石の存在などという観念はまさしく迷妄でしかない。すべては関係のなかにある。だが、その関係なるものもまたけっして実存しない。関係は壊れ(非関係)をまたいで結ばれるもののことであり、その日関係の刹那刹那に私たちは不可能な存在の影を見たいと思う、いや、見ようとするのである。それは迷妄かもしれない。しかし、関係の桎梏、関係の規定性一方にあるとき、その関係の壊れ(存在)を直感し希求するのは、関係を絶対視するほど愚かな業ではないだろう。彫刻が存在の現れを希求することは、だから、彫刻が関係の壊れを待ち望む人間の底深い欲求に根ざしているということなのであり、つまりは、彫刻は関係からはぐれることを、より積極的に言えば、関係から超出することを望む芸術だということなのである」

 そしてそれはメダルド・ロッソへの言及へとつながる。ロッソの「存在しているものはすべて光と大気しだいで見方が変わる」「存在は光の函数でしかない」発言を彫刻家としての発言としては奇妙だと思いつつも、峯村はそこにロッソが「光のみをみていたのではないか」という憶測を立てる。光への回帰。しかし今の芸術家が「光(全一性)が壊れた後の区々たる色(部分からなる現象界)の楽しみに耽るようになり、そのような部分部分の集まりでしかない現象界を統一的に意味づけるものとして「関係」という概念を迎い入れた」のだと語る。


 この後も「現代人」には「難しい」ロッソを称揚する文章が続くのだが、俺はそれを控えたい。俺はロッソの作品を生で見たことがないからだ。生で、光を浴びた彫刻作品を見た後で、また、この文章について考えてみたいと思っている。

 彫刻をしていない俺は、いわゆる「手わざ」でも「量塊」(マッス)でも、いいものはいいし、見てみたいと思う、けれど、そういった作品を目にする機会は、彫刻というものが立体、インスタレーションの一部として発表される中で難しい状況に陥っているといえるだろう。「区々たる色の楽しみ」ならぬ、「俗化哲学への参加」と俺は多くのインスタレーションを見ていたこともあったし、今もそういった作品はあるだろうが、やはり、これからの美術、彫刻、の諸作品がどうなっていくのか、気になる。誠実に付き合ってきたとはとても言えないのではあるが、色々な人の意志に触れ、考えていければいいと思う。峯村はエッセイの末尾に多少ではあるが変革への期待を込めていた。俺は優れた変革の予感がする作品は常に新しいのだ、と信じているし、制作者側も常に新しいのだと盲信していて欲しいと思う。既存の言葉で語らねばならないにせよ、彼/彼女らは常に新しい。はずだ。見ていきたいと、俺も思うんだ。砂金探しみたいな幸福。Grave Digger或いはScavenger Folkとして、きちんと振舞いたいと思う。