ここ数分の感じ

高見順の『いやな感じ』を読み終え、すごく良いというか主題に合いすぎている題名に思いを巡らせた。『いやなかんじ』でも『嫌なかんじ』でもなく、読了後の感想は『いやな感じ』だった。あの感傷的で元気いっぱい、と言ってもいいだろう内容の小説の題が『いやな感じ』だなんて、ぴったりだ! 

 といってもそれは不快ではなく、むしろ俺は、この小説の主人公のように、進んでいやなことに頭を突っ込んではいる、のだけれど、俺は蛮勇を飼いならしてはいなかっただろうか、といやな感情が湧く。

 蛮勇を飼いならすことは蛮勇への理解ではなく、あくまでそういった作法が身体にこびりついているその結果にすぎず、「現代人」の作法であるかもしれない、けれどそれが許されるかといったら話は別なのだ。俺は蛮勇を飼いならしてはいなかっただろうか?

 不実で生活を維持してきたかと思うと涙が出た。これは得意の自己憐憫というよりも、身も蓋もない現実に対する不和を再確認した時の感嘆なのだと、そう思う。俺の多くの不誠実に目を向ける。俺はそれを許している。罰する正当な(!)理由が思いつかない、しかしそれは不誠実であって、罰からも罪からも遠く、しかし不誠実なことだ。俺は多くのことを取りこぼして生きている。しかし、そういうものだろ? はらはらと何かが剥がれ落ちていく気がする。気がするだけだ。疲れているだけだ。身も蓋もない。俺は、身も蓋もないことが結構好きなのだ。

「金がほしいと思わないときは、俺には金がないのだ。今の俺には今の俺がほしいものは、金じゃない。だから、俺には金が無い」

 俺には金がある。量は問題にならない。金がある。やはり金を使わねばならないと思い、また、使っている。思うのは、勇ましさに対する不実は、それに対する発露があるのでなければ、厳しく戒めなければならないということだ。そういうのって「知的」じゃないだろ? 俺、知的なのも知りたいと思うよ。

 俺の気分は簡単に変わるし、俺も簡単に死ぬし簡単に死ななくてもいつかは死ぬ、なさずに死ぬ、身も蓋もない。身も蓋もないことが身を律する機会というのも情けない話だが、「まあ、いでしょ」と不実に思う。あ、PSPのパロディウス買った。ベスト価格で五本もシューティング入ってんの、超お得で超おもろいよ。わくわくする。