宿題について

 2006年に発売されて、その時から買おう、読もう、と思いつつも手を出していなかった本江邦夫『現代日本絵画』、の特に序章が刺激的、というか、考えさせられた。以下かなり長い分量を引用してしまうのだが、俺の書いた文章ではないし、できれば目を通して欲しいと思う。


「今日の絵画はかならずしもプラトン的ミメーシス(模倣)の意味での実物の再現に終わっているわけではない。実際、絵画と言うものを、ミメーシスから切り離して、全く即物的に支持体と顔料とが一体になったものと考えるとすれば、それはむしろ物体(オブジェ)に収斂していくだろう(これはグリンバーグ流モダニズムの最終目標だった)。しかしながら、その一方で絵画は、それがなんらかのイメージの投影された集積である以上、未だに遥かなるイデア界の記憶を宿しつついわば天上も見上げている。つまり、物体すなわち見えるものと、イデアすなわち見えないものとの間に、まさに名人芸と言うべきか奇跡的に宙吊りになった、その緊張の内に、おのずから、無数の差異を演じ、打ち震えているものこそ、じつは絵画なのではないだろうか

 ところで絵画のこうした差異的な性格はまたその平面性、いやむしろ二次元性と深く関係しているのではないか。絵画に固有の特質として「平坦さ」(flatness)を抽出し、そこに絵画の自給自足(autarky)を見出したのは、他でもないグリンバーグだった。しかし残念なことに、彼はこの卓抜なアイデアからイリュージョニズムの否定という、それ自体は今や陳腐な結論しか導き出すことができなかった(中略)絵画に対する絶対的な裁定者として振舞っていればよかった彼にとって、絵画の姿がほとんど見えないビエンナーレなど想像することすらなかったであろう。グリンバーグにとっても「絵画」はすでに無条件に存在したのである。その結果として、彼は二次元としての絵画の基本的な機能、すなわち情報伝達の手段もしくは認識の装置としての絵画の側面に目を向けることはなかった(中略)平面ないし二次元としての絵画は、こうした写像的な思考のまさにイデアルなメタファーであり、今日の執拗きわまりないいかなる絵画滅亡論にも抗して、絵画が絵画として存続している、あるいは美術的な事象のすべての根底に「絵画」があることの、最大の理由はじつはこの辺にあるのではないだろうか。

 絵画こそは認識と表現の双方にかかわるべき美的な装置であり、その意味でかけがえのないものである。絵画つまり二次元死を根底から否定することは、絵画を超えたと主張するすべての表現形式をまさに基礎付けているはずの「近代」そのものを否定することになるのではないか。このように考えてくると「絵画の死」の主張はいかにも流行的なもののように思えてくるのだ。絵画を否定することは結局は写像を否定することであり、その上に築かれたまさに科学的な文明としての近代を否定することである。私が単純きわまる絵画否定論に与しないのはこの理由からである(後略)

 ダントにとって問題は美術の発展の新たなる段階を示す要素が、とりわけ絵画には見られないことなのだ。彼は言う「1981年に(…)絵画にはもう行くべき場所がどこにもないこと、つまりラインハートの漆黒絵画、ロバート・ライマンの純白絵画、ダニエル・ビュランの陰鬱なストライプは、絵画の内的な枯渇の最終段階を特徴づけたのだ」と。(中略)ラインハートの画面はたしかに真っ黒だが、正方形を縦横にⅢ当分してできる九個の格子をある規則に従って濃紺色で精妙に塗り分けたもので、実際はすこぶる絵画的に豊かな作品であり、ここに絵画の極北を見ることはできても枯渇を見ることはできない。それより何より、この反骨の画家の次のような言葉はどのように解釈されるべきなのだろうか。

 芸術について言うべき一つの事は、それが一つの事であるということだ、芸術とは=としての=芸術であり、その他の全てはその他の全てである。芸術としての芸術は芸術以外の何物でもない。芸術とは芸術ではないものではないものである(Art is not what is not art)。

 これをいかにも前衛を気取ったたわ言としてみなすこともできようが、そうもいかない、あるいはそうしたくないのは、ラインハートの黒い正方形の横にレオナルドのウィトルウィウス的人間像、つまり小宇宙としての人間と宇宙そのものを対応させた素描を置いてみると、そこにいわく言いがたい調和が生まれるのに胸を打たれるからである。こうしたことは次の事実、ラインハートが絶対的なまでに超俗的な抽象を目指す一方で、作品の寸法を5フィートつまり人類の平均の大きさにしていることと見事に符合している。これに限らず、私は未だ絵画について十分に語ったとはとても言いきれないのである。そこにはもはや新しいものがないとして今日の絵画を切り捨てるのは簡単なことだが、絵画が次の段階に跳躍するためにはそれなりの準備と決意が必要であることもまた確かだ。私自身は映像に侵食されるばかりで一見停滞しているように思える現代の絵画について、これは新たなる展開への充電の時期であろうと前向きに考えたいと思っている」

 ここまでは、まだ、いい、というか氏と俺との差異を問題にするよりも、ずっと考えさせられたのは、この十分に情緒的で(少なくとも俺にとっては)魅力的な文章が本章に移った際に、さらに、情緒的に詩的になっているということだった。この本はリーフレット、展示に対する寄稿を集めたものが主となっているので、そういった本書の性格は分からないでもないのだが、それでもあまりにも詩的では私的ではないだろうか、と感じる部分がちょこちょこと顔を出ししかし、それの何がそんなに悪いのか、いや、それが本当に悪いこと(と俺が感じている)なのか、と思うとまた困難な問題にぶつかってしまう。この本に触れた時の俺の居心地の悪さは、これが絵画(美術、書かれたものではない芸術)への、生まれが文学畑の人間からのアプローチだと見える(実際そうだろうけど)からかもしれない。

 しかしながら評論家、美大教授の氏は現代の絵画の中に、積極的に何かを見出そうとしているのだ。その姿勢は教育者として評論家として誠実な態度だと思うのだ。これは決して軽視してはいけないことだと思う。(自身にそういった感覚があるとは思えないが)武骨ではあっても、表舞台に立っている人間は特に、雄弁に、為すべきことがあるとするならばすべきではないだろうか? 手をこまねいて他者への正当性に関して語るよりも、ずっと建設的ではないだろうか?

 とかく評論、というものと自分が距離を取れていないというか、これからも誰かについて「極めて熱心に」或いは「真摯に」語る誰かについては俺も考えていかねばならないと改めて思う。俺は評論家になりたくないが、評論家について知りたいと思う。