そう、それではありません。

「私は哲学は持ち合わせていません。今は持ち合わせていません。私にとって映画をつくるということは、探偵なり裁判官なり検事なりになって、法廷に証拠物件を提出するのと同じようなことです。またそれがなんの証拠物件なのかを発見しようとするのと同じようなことです」

 『ゴダール全評論・全発言Ⅱ1967−1985』における81においてのこの発言で、俺は少し気が楽になった。そうだ、彼がその十年後に二十年後に映すことになるあまりにも美しい自然に、留まることを許すフィルムについて向かう心構えというものを得た気がした。しかし、80年代にも彼は美しいフィルム、自然を映フィルムを撮っていて、すぐに思い出すのが『フレディ・ビュアシュへの手紙』と『パッション』で、特に『フレディ・ビュアシュへの手紙』のあの水面の輝かしさつまり「水面が美しいこと」という最大の賛辞を送るに相応しい映画は俺を苛立たせる美しい映画『愛の世紀』や『アワー・ミュージック』に通じるものがあるのだけれど、俺にとっての救いは『手紙』がわずか十二分の短編であり、また、そこには追い越そうという意志が見えるからだ。俺は、数年前、十年前のゴダールを目にしなければならないのだと思う。にしても、まずはもう一つの美しい自然『パッション』、彼の提出しているものについて語りたい。同著より、彼の発言を引く。


「僕が不満を言うのは……
 
 ――職業倫理からなのです。

 そう、僕はあれこれと不満を言いたてる。そしてそれはぼくのトレーニングなんだ。不満を言うというのは人々の注意をひきつける唯一の方法なんだ。君は笑いでは人の注意をひきつけることはできない。君が笑っても、そのあとでソ連の戦車がやってきて、若者は逃げ出してしまう。君が酔っている場合は、君は命を落とす恐れがあるわけだ。僕が不満を言いたてるのは、純然たる職業倫理からだ。事実、僕は自分の職業の実践においては、たえず笑い興じている。プロデューサーや銀行家とは大いに笑い興じている。それでも、僕は抗弁するのが喧嘩を吹っ掛けるのが大好きなんだ。。僕は自分の方法として不満を言いたてている。だから誰かが僕に、≪なあ、いいかげんにしなよ。全てがとてもうまくいってるじゃないか≫と言ってくれさえすればいいわけだ。でもかりに僕が自分から≪すべてがとてもうまくいってるよ≫などと言うようになるとすれば、それはもはや一巻の終わりだよ。」

「僕はこの映画の為のトレーニングの仕事として、連中にぼくが選んだ二つか三つの音楽を聴くように求めた。それらを一度でだけ聴くんじゃなく、定期的に仕事として聴くよう求めた。それに、音楽を聴きたくないときに音楽を聴くほどつらいことはない。それでも僕は連中に、一時間とか三十分とかじゃなく、十分間聴くよう、定期的に聴くよう求めた。ところがそれさえもさせることができない。そしてそれが『パッション』なんだ。この映画は自分は走るすべを知っていると考えていて、レースに出ようとしていながら前もってとレーニングしようとはしないランナーのような連中と一緒に作った映画なんだ。演出助手のチーフもスターもそのほかの者たちもそうだった。おまけに連中はレースに勝ちたがっていて……」

 映画冒頭に広がる蒼穹に介入する白い飛行機が残していく雲は、広がりであって美しくはない後年の俺を苛立たせる留まる美しさはない。それよりももっと肝要なのは、この映画に「受難」も「情熱」も、『パッション』を見いだせないということなのだ見いだせないのにもかかわらず、美しく、映画の中では『万事快調』ではないのにもかかわらず、『万事快調』と同様に、ユーモラスといってもおかしくはないことなのだ。ユーモラスの欠如した自然への留置(ユーモラスな自然が現象するとはどういうことだ?)、恐ろしい。恐ろしいことだ。


 俺は彼のⅢ巻目の著作集と、それについての作品群を見る必要がある、にしても、どうだ。とりあえず5、6、万は覚悟するべきだ。たった! 五、六万! にしても、俺はその金を稼ぐのにどの位の(略)を(略)ばならない? 

 他人のケツを舐めろ、と指導をしてくれる人。「いや、やっぱり靴の裏では駄目ですかね」と言えばいいのだと親切なアドバイスをくれる人。不当な不条理な、人間的な言葉で俺の妥当性に関する強迫観念を惹起させる人! 彼らの硝子の瞳のその、輝き、その機械のような美しさに、俺の悪罵は必ず喉元でつっかえてしまう。機械のような美しさ! おそるべき恒常性いや、自然の、音が(映像を追い越す)付随する彼ら! 音声付きの自然! 文字通りの、恐れるべき侵犯を行う喋る自然に俺は声をかけねばならないなんて! それを「パッション」と呼べば、いくらかメロドラマ・チックで、数秒はおかしくなれる。「パッション」映画の『パッション』でも、不義が倦怠が不当解雇が不実が、そして何よりも讃嘆すべき機械のような美しさをたたえた人々が登場するのだ。労働情熱受難、三位一体、糞野郎。

 自然を、正常ではないと俺は感じているのだ。或いは自分が以上だと認めたくないそんな訳がない。自分が異常だと信じて暮らすことは困難だ、困難なことに根気なしの俺は耐えられない。異常に立ち向かうのも、困難だ。体力がいる。体力について多く語ることは困難というよりも馬鹿らしいことだ。馬鹿らしいことはもう少しだけ後だ。