わるいひとたち

 わるいひと、と口に出してしまうことがあり、それは昼間から言えるようなものでもないしまして、こんな日記として残すには気恥かしいもので、狭い薄暗いアルコールの入ったいや、出来上がった空間において成立されるような性質の言葉で、俺はその「わるいひと」と言う言葉を告げる際、金平糖の棘のような甘さが羞恥を刺激するのを味わう。必ず、苦笑と共に告げられる(幾ら俺が恥知らずだとはいえこんなことを口にしたことは数回しかない)その言葉は、たまゆらの共犯者になったかのような、罪悪と自責とをもたらす。しかしたまゆら、しかし口にするその場では、成立するのだ。そうだろわるいひと。

 久しぶりに堀江敏幸のエッセイを目にしながら、彼の清潔、といってもいいような文章に触れ、俺は彼のいい読者とは言えないにしても、彼の文章を目にする際は何だかいつも久しぶり、という気がしてくる。翻訳小説を目にした時のような彼の文章、「愛読してきた作家と話をしていることに緊張しつつ、千載一遇のチャンスとばかり、簡単な自己紹介をしてから、失礼をかえりみず私は相談を持ちかけた。」と言う一文の、千載一遇のチャンス、だなんて失笑物の言葉も堀江の文章だとすんなりと頭に入る。言葉を弄んでいるという印象を受けない。たまに目にして俺が「うわあ」と感じる、「○○でせう」とかいう文章を使っている人達とは(当然だが)大違いだ。そこには文章に言葉に対する敬意はなく、個人のナルシズムしかない。打ち捨てられることを省みない言葉達はしばしば面倒だ(別にそれでもいいんだけど、見る側じゃないなら)。

 保坂和志に『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』という題のエッセイがあり、そこにある彼の健康的な、題に反して(いや、忠実に)大学に六年在籍し、専業作家になるまでに会社員として十数年努めることのできた人間の言葉が残されているのだが、保坂は決して迎合的な人間とは違い、「ズレ」があるからこそそういった環境でもやってこれたように感じられる。色々と労働問題が云々されている2007年に発売されたこのエッセイで、自分は「プー太郎が好きだ!」と言う題で、彼らへののんきな賛辞を送り、彼らに対して引け目を感じることがないわけではないにしても、「保坂さんのまわりにはどうしてこんなに何人も“ぷらぷらおじさん”がいるの」という言葉に「私は自分が褒められたみたいに誇らしかった」と語る彼は、とても健康的だ。

 彼らの小説、エッセイに共通しているのは、わるいひとも悪も登場しないということだ。そして、それでいて俺の心を打つ、ということだ。それは彼らが健康的(!)故に、世界への対峙も会話も緊張感を生みだすことに他ならない、彼らの卑下すべきではない恒常性。父露伴の厳しい躾と文体との影を受け継ぐ(と言えばなんとなく収まりのいい言葉ではあるがここで好きな幸田文に深入りしようとは思わない)幸田文、というよりも武田百合子のエッセイを想起させるようなその温かさは、少し塩味の利いたお吸い物の、真っ白な百合根を口に含むと、ほっこりとした、馬鈴薯のような甘さが咥内に広がる感覚にも似て、幸福な、健康的な温度がある。
 
 とかいう温度を味わうことが出来る俺ではあるけれど、やはり、ゴダールの『カルメンと言う名の女』における二つの引用は魅惑的で、

「美とは、我々が耐えることのできる恐怖の始まりの部分だ」

 或いは映画の末尾、愛する相手に銃殺され、今わの際の「カルメン」、という名の女がボーイに無理な質問を投げかけ、それに対するボーイの返答。

「お嬢さん、私が思うに、それは夜明けと呼ばれるものです」

 悪を為すことは困難であっても、「わるいひと」ならば、それなりに存在して、彼らはきっと、羞恥無しに(そういった発言をする俺、のような人間への苦笑はあっても)「わるいひと」という言葉を享受できる、つまり彼らは、わるいひと。彼らの欠損。しかし彼らがダイアモンドではなくジルコニアでもプラスチックでも、光を当てれば反射し、輝いてしまう。やはり彼らはわるいひと、だ、けれど俺はあの場で、微笑ではなくその手を取り「だけど貴方は不潔じゃあないか」と告げるべきだったのだ。あまりにも馬鹿げているにしても。馬鹿げている。俺は相手を口説こうとなんてしていないのに。俺は素直に生きるべきではあるけれど、羞恥を守ることも必要だ。一杯のアルコールで赤くなる頬に迷惑ばかりかけるわけにはいかない。

 文章の腐敗について、厳しさに似た身ぶるいについて、それを明確に意志してからか、堀江や保坂らの小説についての理解が広くなったような気がしないでもない。彼らとは違う方法で、俺も割と好きなのだと思うしかし、面映ゆい。