君の瞳のジルコニア

 柔らかく、時間を拘束して貰う為の数本の、期待していないフィルムの中の一本『いのちの食べかた』がとても良かった。食べ物がどのように作られているか、その工程を映したドキュメンタリー映画だ。ただ、そこに人間の余計な音声はない。これはオーストリアの映画なのだが、字幕すら出ない。そして、植物も動物も、同じように「収穫」する様子を淡々と映し続けるのだ。

 割と人間の拷問については親しんでいる。俺達はあまりにも、そういった情報に簡単にアクセス出来るし、それは現実に近しいものでもある。「本物」の拷問にだって、親しむことが出来るだろう(耐えられるかは別問題だ)。だから人間のそれ、よりも動物のそれらを見る方が、痛ましい。慣れの問題だろうか? そう、だと思う。けれど動物の意志の無い(とあえて書く)瞳が潰されるのには涙が出る、ことがある。今回は涙が出なかったにしても、ベルトコンベアに「ピヨピヨ」泣きながら大量に運ばれるひよこ達を目にして、少し「どきり」としてしまった。初めて目にしたから。

 一切の殺生を行わないとか、そういった修行をしている人の話を耳にするとなんとも言えない気分になる。だって植物ならいいとか、その理屈がおかしいとしか思えないし、生きているだけで、目には見えない細菌らを殺しまくっているのに。でも、俺がそう思っても意味はない。俺の言葉は彼らにとって必要がないのだと、確信しているから。

 この映画では左右対称の構図を意識して撮られていた。ダイアン・アーバスが正方形の画面にフリークス達を焼き付けたことを想起する。それはちっともおかしな光景ではないのだ。余計な強調は無残な結果に終わる場合が多いだろう、というか、無駄が無い、かのようなフォルムがシェイプがスクリーンが俺の好みだということだろうか。

 レネの撮った『夜と霧』を想起しつつも、俺は『ベトナムから遠く離れて』という反戦ドキュメンタリー・オムニバス映画におけるゴダールの立ち位置を考えていた。他の監督らが戦場を映す中、あきらかにフェイクにしか見えない書斎の中で一人の男の散漫なつぶやき、引用、を映して見せている(しかし彼自身はその後で行動に出るのだ)。彼のその姿勢こそが、一番印象的だった。その場でその立ち場で、どう振舞うべきか何を語るべきか。

 おやまだけーごが、昔音楽誌のインタビューで(笑)つきで、クラスメートと、クラスの知的障害者をいじめていたことを告白していたことがある。その内容は自慰の強要や肉体的な暴行や、無抵抗な相手に対してとても信じられないような内容で、しかも本人がそれを全く悪いと思っていないのにも驚かされた。少しでも悪いと思っていたらとてもじゃないけれどこんなことは口にできないだろう。そのおぞましい対談には(笑)が頻出している。それを編集者や編集長が世に出したのにも、驚いた。嫌悪とかではなく、驚いた。あまりにも考え方が違くて。そんなのは当たり前だとは思ってはいても、たまに、「なんだろう」という気分になる。

 テレビで付き人を何人も(自分の行いで)田舎に返したと自慢していた「教授」がいきなり「非戦」とか言って、その後で「ひきこもりもCo2を吐いているから迷惑をかけている。ひきこもりに付ける計測器があればいい」とか発言(でもこれは雑誌の「文章」では読んでいないので違うかもしれない。にしても、俺はこの人の発言を信用していない)しているのも、驚いた。違いすぎる。

 ジョンさんの奥さんが、自分が相手の家庭をめちゃくちゃにしておいて、ラブとかピースとか、驚いた。違いすぎる。とても個人的なことだが、俺にとって幸福なのは、彼らの作った音楽、芸術(といっておく)を「大好き」ではないことだ。良かった。まあ、大好きだったら、それはそれで面白いかもしれないけれど。

 個人的にはそう言ったメッセージを口にして共同体の一部になっていく人達とは「違い」過ぎて、別の世界の人だよね、と感じる。浮草、というより単に根性無しの俺。しかし、共同体への帰属意識がそれが思考停止に見えても彼らを幸福にするのならば、強い文句は出るはずがない、けれど、その帰属意識がおぞましい権力に転化するならば、俺の足元に槍を投げるならば?

 耐えればいい逃げればいい、とそればかり思っていた。無理に話す必要がどこにあるんだ? けれど、それ以外に解決方法もあるのではないかと、少し、そう思うようになってきた。やっお、最近俺は自分が「ほぼ」おかしくなんてないのだと感じるようになってきた(だれでも少しはおかしいですから)。彼らがおかしいかどうかなんてどうでもいい、けれど俺は普通だ。普通なんだ。

 具体的な方法があるわけではないけれど、ドキュメンタリーに従事する意志のある人々、伝えることについて思いを巡らせると、ふとそんなことを思うのだ。彼らだって全員に分かってもらおうだなんて思っていない。しかし意志があるのだ。いや、倫理と言うべきか。俺に道徳(ほとんどの人が持ち合わせている)はあっても、倫理があるだろうか? 「ルールは破る 為にあります」なんて電子音に乗った歌詞を、傷つかない位置からの嘲りの為では決してなく、探究の為の友としていた俺としては、「ルールは 破る為にあります は 破る為にあります」という戯れの中に身を置いて、少しでも情報を欲していた。それが情報の得方なのだと、感じていた。そういった硬直した(しかし定まらない視線に大した力があるとも思えない)視線に吹いた風が、ドキュメンタリーへの意志を持った人々の存在だった。俺の乾いた瞳はあわててまばたきをする。そこに映る景色は、数秒前の景色とは決して違う。たいして違いはないのだ、けれど。

 彼らを目にして、考えることが、心地よいと思うのだ。