また増えてしまいましたが

 初めて小説を書いてみよう、と考えた時に意識していたのは、もの派、というよりも、誰も住むことのできないアルテ・ポーヴェラ、というようなもので、もっともデュラスもロブ・グリエも好んではいなかった俺にはそぐわなかったのかもしれない。ミニマルなものは文章よりも向いているものがあるように思える。でも、流木をつなぎ合わせたような文章、というものを思い浮かべると、何だか幸福な気分になる。

 今も割とそういう傾向があるのだけれど、オノマトペを、無邪気なオノマトペを目にすると嫌な気分になっていた。それはそれを書いた人が十分に感情移入する装置をこしらえているにもかかわらず、多くの場合それが失敗しているように思えていたからだ。(どうでもいい人の)無防備を許せるほど、心は広くない。

 これが文章に限った話には留まらず、絵文字やネット(掲示板)用語というのも、最初はそれらを目にすると猛烈な嫌悪に襲われた。メールの絵文字、顔文字も、男が使うならば「何なんだこの人は」と感じた。俺にとっては男の絵文字は「リボン」モチーフのファッションに近しい。リボンと男とは、合わない。というか、それをつける意識が圧倒的に足りていない。顔見知りの男が急に、いつもの服装で頭にリボンをつけていたら、嫌な気分になりはしないだろうか。

 しかしメール等の顔文字絵文字を使う人達(男)は、揃って生活に関して前向きか、ド助平かのどちらか(どちらも)で、明るい人の無邪気さを責めるのは(元々絵文字に関してその人に苦言を呈した事はないけれど)お門違いだと感じるようになってきた。それに人によっては、まあ、いいや、と思えるようにもなってきた。リボン男子、も見慣れるということか? いや、やっぱり未だあまり慣れない。そこに彼らの「相手がこういったことをしてどう思うか」という気持ちが一切感じられないから。

 グーグルで検索したページを上から順にクリックしてみるとヒットした、インターネット掲示板は、そういった相手への感情、配慮、というものが徹底的に欠けているように思えた。ない、とは言えない。あまり詳しくないし、どうでもいい。けれど彼らは他者なんて求めていなくて、ひたすら共感やダイアローグを求めているのだという印象は強く残った。また、そこでネットスラングを多用する彼らは、絵文字を使う人
と同様に、世界に対してどこかで安心している、自分自身に価値を見出している、ように感じられた。だいがくのせんせーやらしょうをとったせんせーやら(の一部)が、どんな場でも自分が価値がある、他者から相応の対応をされてしかるべき、と(マジで)思っているようなもので、そういった振る舞いは彼らの判断力に対する不信感を抱かせるのに十分で、そういったものに従事する人間としては不適当な性向だなあ、と思ってしまいそれだけでも「俺にとっては」魅力的な人物と映らない(しかしそういった人は全員からの称賛を求めることがある。相手の人格を無視して、幼稚な称賛承認だけを)。

 人から(自分が思っているよりも或いは許容できるよりも)よくない対応をされるのを嫌がるのは当然だと思うが(これを容認できることこそ卑屈と言うべきだ)、誰かにとって自分がクズでも、それすら満たさない存在でも、しょうがないだろ? 「恥をかけない大人には なりたくない 恥ずかしいもの」ってクラムボンの歌であるだろ? 恥ずかしさに関しての意識が低い人や、自信満々な人は、「俺にとって」はしばしば魅力的ではない。また、そういうのを見いだせたなら、そういった言語に嫌悪は湧かないだろう(と思う)。

 対する俺が、自分を無価値だと思っているとかそういうことはない。彼らの反転した姿ではない(もっとも、どうでもいい話だ)。ただ、彼らよりもずっと神経質というか、単純に色々なものに関する親和性の低さは感じるのだ。舞城王太郎、と言う作家がいる。俺は彼の作品を読もう、として二回挫折している。彼の作品は、俺にとっては掲示板(インターネット)的大冒険というような作品に思えるのだ。最初は某作家のように題名だけで「猛烈な嫌悪」を覚えていたのだが、やはり読んでから感想を持つべきだと手にはとってみたものの、30ページで挫折してしまった。俺は彼の小説を読めない(つまり、え、これどーなのと思っている)、にもかかわらず、読んでみたいな、と思うのだ。

 しかしながら、インターネット上のそういった場所は、いわば飲みサーの集まりのようなもので、その場自体に関しての部外者の言葉は大した意味をなさないだろう。感じてしまったことは仕方がないにしろ、彼らのお祭りを断罪する権利はない(法に触れるとかなら別だけど)。単に価値観が違うだけなのだ。俺はゲームばかりしていて、ゲーム系のサイトを「お気に入り」に登録しているのだけれど、そういった場所ではやはりネット用語やスラングが頻出する。俺は一番最初はそういう場所の言葉って自分が傷つかない位置からの嘲りや自己陶酔ばかり、という印象を受けていたのだけれど。実は、それよりもユーモラスなんだということを知る。正直に言って魅惑的なモノローグ、というには相応しくない、という印象を抱きながらも、舞城の作品を読みたいと思うのは、少しはネットでのそういう集まり、無防備な親和性への理解が高まったからかもしれない。何カ月か後に、俺も舞城の作品を読むことができるだろうか。将来、ネットスラング満載の「日記」を書くことができるだろうか。後者は無理にしても、今年中の宿題として、舞城の作品には目を通したいと思う。また、舞城に嫌悪を覚えていた人のブックレヴューが読みたいなと思う。