ヘヘヘイ、ヘイ

 少し前に中原昌也の演奏を聴きに行った。正直、彼の文章は好きだけれど、音楽活動については初期の『暴力温泉芸者』時代のがピンとこないで、ずっと聞かずにいた、だからその時も軽い気持ちで向かったのだけれど、行ってよかった。本当に良かったと思った。その後で演奏していたジム・オルークがかすんで見えた。ノイズの中で冒険しているような、幸福な一時間の体験が出来た。ヘア・スタイリスティックス名義になった中原のCDがとても欲しくなった半面、こういう場所で、大音量で聞いたからこそ、のものかもしれないという思いもよぎる。彼の本にはCDが付属している物がある。しかしそれは全て図書館から借りたもので、区外貸出で借りたものだから、少し待たねばならない。待っている間に、今のところ彼の最新作にして最高傑作(だと思う)『ニートピア2010』を再読することにする。

 以前、清水アリカが中原の帯に「前作よりよい」といったようなことを書いていて、かなり「いい帯」だと思った。実際、中原は書くたびに上手くなっているような印象を受けた。というか、最初は処女作とか何の悪ふざけだ、とか感じていたが、何冊も読み進めていくうちに、不思議なユーモアに触れ、にやついてしまうことすらあった。

 ユーモアというのはとても重要なことだと思う。どんな状況でも、少しのユーモアもないというのは寒々しい。そんな寒々しい状況にしばしば陥ってしまうにしてもだ。俺が敬意を抱く人達の文章、作品は、ユーモラスでもある、というか、ユーモアが感じられない作品なんて、退屈じゃないか。そんなの読み飛ばしても二倍速でも構わない。



「お金を稼ぐというのは、そんなことでしょう? そんなものをみなさん読みたいのでしょう? 読者より、いかに悲惨な人生を送っているのかを売り物にするしか、少なくとも自分には生きる術がないのだから
 小説を書く方法は手に入れた。だが、小説を書くのが好きになる方法だけは、永遠に手にすることはないだろう。そんなものは、この世の中に存在するわけがない。それだけは一生手にすることはない。だが、どんなに価値の認められない、意味のまるでない苦痛なだけの作業に過ぎないとしても、労働だけは続けなければならない。」


「だが、ある程度まで行くと、悪化することはなかった……ただ酷い状態が延々と続くだけだ。
 誰の同情も、何ら意味がない。ただただ苦しむだけ。何もしない方がマシだった。何もせず、他人とも会わず、ただ黙っているだけの人生が苦しみを増やさない、唯一の術だった。
 だが、何もしないというのを許さないのがこの世界の本質的な残酷さだ。その救いのない、生きざまを曝け出して、人々の失笑を受け入れなければならない。そうやって、人からやっと何か恵んでもらえる」

 

 小説の間に唐突に挿入される中原自身の「雑感」とでも呼ぶべきものに俺は共感を示しつつも、俺は彼のファンではないかもしれないと思う、というより、中原は自分の文章を褒める人、ファン、同業者、に対して感謝や無関心や嫌悪を抱いていることを何度も口にしているし、こういった言葉は少しずつ内容がぶれている時もある。俗っぽい発言も理想主義的発言もおおいにする。俺は中原が好きだけれど、そういう人のファン、とは言えない。逆に言える人の無邪気さを、中原は時に感謝し、時に軽蔑するのだろうと感じる。面倒な話。

 しかし中原は音楽に関してはそういった言葉を漏らしていないようだった(俺はほぼ音楽誌を読まないのでちゃんとは知らないけど)。彼の曲を生で聞いて、良かったと思った。音楽家、アーティストだと思った。しかし、彼は書いてしまっているのだ。金の為でも、何にせよ。

 スガ秀実が「じぇいぶんがく(マジきもいね!)」のJは「JAPAN」ではなく「JUNK」のJであり、その旗手として中原の名前を挙げていたことがあった。ゴミバカリの状況で、ゴミを引き受ける頼もしさ。彼も好きだと言っていたファスビンダーの映画のようにユーモラスな、中原の作品たち。

 しかし俺は中原の文章に美しさ、詩的な体験、を感じたようなことはない。彼がそれを拒否しているのだ(自身で才能がない、とか何度もぼやいてはいるけれど。その才能というものが何か本人も分かっていないはずだけれど)。美しかったならば、美しいと感じられたのならば、その堅牢さだけでもう、了解してしまう。そういうものを待ち望んでいる。にも関わらず、やはり、中原の文章が、彼の姿勢が好きだ。


「例えば身体のあらゆる部分が独自に意志を持って同時に機能し始めたとする。それぞれが別の生き物になり、好き勝手なことを始める……。両方の目がそれぞれ違う方向を見たり、すべての指がばらばらに動いたりと、主体としての自分が解体され、分散された感覚として活動するのだ。
 実際には想像し難い感覚だが、それが可能であったならば、どんなに人は孤独から解放されるだろう。そのように考えると、非常に楽しい気分になってこないだろうか。
 文学も同じように、文章として定められたある方向へと流されていくのではなく、各文字が独立したものとなって同時に存在を許されるような、この世界に放置された有機体のようにただあるがままに……それは絵画のようなものであって欲しい。人の視線が太陽光線となり、彼らは生命を維持し繁殖する。言葉達個々の命運に、我々が介在するようなことがあってはならない。
 そのようなものが書けない(自分に書く才能がない)ならば……また、そのような小説がこの世に必要とされていないならば……もう何も書くべきではない。小説など真の意味で誰も必要とはしていないのだろう、と考えた。」


 この、どこか、綻びのある、しかし魅力的と言ってもいい文章を読むと、やはり中原は書かねばならないのだと感じる。俺は彼とは違うけれど、書かねばならない。ノイズの中でためらってばかりはいられない。ずっと、じっとしているのも、苦痛に転化されてしまう。しょぼい冒険を続けなければならない。それは文字通り、ださい、しょぼいものであって、そこにある少しのユーモアを当てにはせず、しかし、冒険をしなければならない。ダサイ、しょぼいのは嫌だと思うけれど、恰好良く生きるのとは、中々折り合いがつかない。