アサヨナカシネマ

 俺の大好きな漫画家は中々新作を描いてくれなくて、まあ大好きにせよ全部をそろえているわけではないのだけれど、ふと、やまだないとの本を二冊注文した。

 ファッション誌の表紙、というよりも、日本の(マニアの方から渋い顔をされているらしい)音楽雑誌の表紙にいそうな男の子のイラストと、女の子のつぶやきが載った『ボーイフレンド 男の子じゃないとだめなんだもの』 それと、

 備忘録、自分の為のメモ、自分を「ヤマラハルヒ」という名前にして「レンタルショップで何か借りようかと思った時に、隣のおばさんがおしゃべりをはじめた」ような本『ハルヒマヒネマ』。

 『ボーイフレンド』は数分で読み終えるような本だ。恋人、ではなく「親友」みたいな、「ボーフレンド」、女の子が男のじゃなければ駄目、なんだと語る、愛らしい本。さらりと、読んでしまえる本。

 『ハルヒマヒネマ』もさらり、と読んでしまえる本ではあったが、ないとが映画の「感想」と言いながらも、結構なページを割いて語っている映画も当然あった。その中の一つが『メゾン・ド・ヒミコ』だった。ゲイの老人ホームを舞台にした、ゲイ(オダギリジョーとか)と女の子(柴崎コウ)の話。

 ないとは語る。

「たぶんハルヒ(この本でのないと、てか、ないとはアニメとか見ないので、あの人とは関係ないと思う)は日本でこの映画を嫌いな三人の一人だ。あとの二人とはまだ会ったことがない。何なんだ? この映画の、冷たさは……。これがハルヒのこの映画への印象だった」

 ないとはこの映画の恵まれている環境での寂しさ、の演出に嫌な感じを抱いているようだった。俺はそれを書き写す気にはなれないのだけれど、読んでいるうちに映画を観なくても十分、それが伝わってきて、嫌な気分になった。見てから言うべきなのは分かる、でも、見なくても分かる、と「気付いて」しまうことは、ある。

 ないとが書いていた、ドレスを着たおじさんをあからさまに差別する昔の知人、に(最初はゲイになじんでいなかったらしい)「コスプレ柴崎コウ」が「謝れ謝れ謝れ」とくってかかるシーンは暴力的だ、という感想に俺はその映画の状況が頭に思い浮かんだ。俺も、嫌な気分になった。

 この主人公達には沢山の仲間もいて、かなり恵まれた生活をしていて(それをないとはずっと口にしていた)その上でこの分かりやすい差別的展開。にじゅーよじかんてれびの「頑張る純粋な障害者」を転倒して少し大人向きにしたような、気持ち悪い展開。

 でも、この映画は大分評判らしいことは俺も知っていた。(それなりに当てになる)アマゾンのレヴューでも高評価だった。否定派の意見も、何だか「自分には合わない」みたいな感じだし。でも、俺もないとみたく、彼女の「感想」だけで十分気分が悪くなれた。こういう暴力(俺にとっては吐き気)が、ど・り・か・むの曲(よりもさらに巧妙な)のような善意が蔓延しているの事に対して、生活する気力が薄れる。てか、監督の名前からしておかしくないか? いぬどーいっしん、って。気持ち悪くないすか? ほんと、考え方が違いすぎて、びっくりする。その狡賢さを意識しない姿勢に。大した面の皮の厚さがなきゃ、自分にこんな名前付けられないよね。それだけで俺は気持ち悪い(てか、俺は本当に神経質というか、もう、ヤバイ、と自覚しているけどね!)。映画も、最後は幸せ! よかった! みたいなものらしいです。

 でも、こういった違和感よりも俺が気になったのは、ないとはこの映画に「女を求められない女の子にとっての夢の場所」という表現でゲイの老人ホームを表現していた。

「少女の夢の国として描かれていればこの映画を嫌いにならずに済んだように思う。夢の国なんてないんだよ。おじさんがリアルを教えてあげよう。大きなお世話だ。イヌドウ監督は自分の中のほんとうの寂しさを見せたくない人なんだろう」

 ないとのこの言葉で、俺はこの見たら気分が悪くなるに決まっている映画を見なければならない気になってしまった。(おそらく)ファンタジーを履き違えた気分の悪い映画を。でも、見たくない。けど、見るかもしれない。ないとのこの言葉を、もっと考えてみたかったから。

 また、ラリー・クラークの映画について、ないとは「男の子じゃないとだめなんだもの」といった視点で語っている。短いので全部引用すると、


「ヤマラハルヒが自分の漫画の中に、チ○ポコ(本文伏字なし)を喜々として描くようになったのは、ラリー・クラークの写真集を見てからだと思うのだけれど、それは男の子が化粧のとけたような女にフェラチオされている写真。
エロ写真を見たことがなかったわけじゃない。さらには、これはアートだからちっともいやらしくないなんて思ったわけでも決してない。
なんてかわいらしいいんだと、悲しくなったんだ。
おかしなもので、かわいいものは同時にいつも悲しい。
こんなものが大きくなったり小さくなったりして、キモチよくなりたくって、それで、誰かを傷つけたり、幸せにしたり。
どうがんばっても女の人には持てないもので、そこもまた悲しい。
あ、そうか、ハルヒの中にある、悲しさって、こんな感じだと思ったのだ。
自分では持てないもの。
自分ではどうしようもできないもの。
つかのまの幸せ。
みにくかったり、みすぼらしかったり、滑稽だったり。
ハルヒの哀しみは、なんかそんな形だ
ラリー・クラークの写真を見たとき、その形がぽかりと浮かんだ。

で、KEN PARK(この映画)。
子供たちのセックスじゃ、とてもかわいらしかった。
ので、悲しかった。
子供たちが悲しいのは、いずれ大人になるからだ。彼らを傷つけた大人達に、彼ら自身がなってしまうかもしれない。
彼らがこのままの姿でいることはできないんだと思うと、それを知らないかのような彼らに悲しくなった。
ハルヒだって知らなかった」


 ないとが以前出した『エロマラ』には、ペニスに小動物みたいな顔がある(そこ少女が見出す)少年が登場していた。滑稽で、可愛らしいペニスとして。性欲や見栄ではなく、男性器そのものに愛着を抱いている人は少ないだろうし、それはゲイや女性に多いような気がする。女性、の中でも、手にできない少年に憧れを抱いている少女達に。

 またこの本でないとは映画化された『妄想少女オタク系』に素直な喜びをいっぱいの賛辞を捧げている。これは原作を少し読んだことがあるのだが、男の子が好きになった相手(ヒロイン、主人公)が重度の婦(あえてこの漢字で)女子で、自分と、ではなくその男の子と友人とをカップリングして大興奮するような、重度の、頭の中には漫画とアニメばかりの女子。

「君は俺のことが好きなの? それとも男といちゃいちゃしてる「俺達」が好きなの?」ラブコメ、みたいな話だ(と思う)。


「恋愛に他人事として距離を置くことでしか近づけない気持ちはハルヒすごく分かる。
自分の姿を見つめないことで何かを守っている感じハルヒはすごく良く分かる。
だから、カイアサミ(主人公の女の子)は鏡を見て泣いたんだと思う。ほんのちょっとお化粧をして鏡をのぞいて、それで、泣いたんだと思う。
たぶん、見つめないで、触れないでいるうちは「男の子」でいれるんだ。
ハルヒも泣いた。しゃくりあげる程泣いてしまった。
あの瞬間こっそり彼女の中で終わったものがあったのだろう。
こっそりこっそりお別れしたんだろう」

 化粧をした女の子が泣いてしまう、というそのシーンの為だけでも、俺はこの映画を見る価値があると思った。というか、そういう気持ちにならないのならば、その人にとってはあまり楽しくない映画になるような気がした。

 でも、俺はそのシーンを見ても泣かないだろう。俺はないとの言葉にないとの描いた多くの漫画に登場人物に共感をする、彼女の漫画がとても好きだ、けれど、俺は引用した数々の彼女の言葉に共感はしても、どこかで、良く分かっていない。俺が、男だから。「男の子じゃなきゃだめなんだもの」の重みを「本当に」は理解していない。もっと言えば、俺は「女の子じゃなきゃだめなんだもの」という理解もしていない。確かに、そういった事柄「じゃなきゃ駄目」なことはあるにせよ、切実さがない。俺のあこがれはべつのものだから。

 ファルス羨望、とかそういった言葉を使うのは、何だか暴力的だと思う。妥当性はあるにせよ、俺が心理学の類に信用がならないのは、結局「そういう人もいます、そういう確率がたかいっぽいです」ってことじゃん。そんなの乱暴すぎるっしょ。便利だし、有用にしても。何でそんな言葉で本を書けるの? 皆の前で喋れるの? 外国人のせんせーが書いて社会的な重みがあるから? ていうか、その比重は要素はとても大きいように思える。(マジで)少しだけ、嫌な気分。それよりも、当事者の、いや、向き合っている人の言葉の方がずっと重みがあるように感じられる。

 ないとの感じたことや、近しいことについて、俺にとっても大切な、付き合っていかなければいけないことがある。でも、今は「俺はやまだないとの漫画が好き」でいいような、そんな気がする。そうじゃなきゃ、やってらんない、っしょ?