アマゾネス来る!

月の終わりに請求されるアマゾネスの襲来を支払い終えて、いつ仕事を辞めるのかを告げるか思案しつつも、というかそんなことばかり考えているのにも行動に移れず、そんなのはいいからとにかく金を使うんだ、という声がして、とりあえずまた、アマゾンに注文ばかりしている。大好きだ、アマゾン、アマゾネス。

 金井美恵子の『目白雑記3』を読み、小さな声をあげて笑う。エッセイを読んで笑ってしまうのって、今思い出せる名前は、町田康ナンシー関か金井だけかもしれない。金井を表する時に知性とか恐ろしいとかそういった形容を見かけることがあるけれど、それよりもずっと「ツッコミ上手」という方が適しているように思える。ボケに対するツッコミだ。

 ツッコミはその場その場を上手く切り取る、回す、事が出来る。(大抵の場合)瞬時に判断を下し、「ボケ」を豊かにするのだ。多くの批評やエッセイ等にはこのツッコミの視点というか、ユーモアが欠けているように思えるのだ。それは難しいことではあるけれど、笑えもしないましては品もない悪口や断定は、その言葉の妥当性が高くとも、読んでいていい気分にはならない。

 そんな金井の初期の小説をちょこちょこ読んでいたのだが、その出来が何だかセンチメンタル実験小説めいていて、何かが起こりそうな萌芽が見えつつもそのままになっており(それが意図されたものとは思えない)、やはり30、40過ぎの作品の方がいいなあ、と思うと、文学者の作品ってそんなのばかりじゃないか、という思いが頭によぎるが、それはまぎれもない事実で、何だか嫌な気分になる。文学における二十代のフレッシュな才能! といったものに出会うことは、ユーモラスなエッセイよりも難しいものなのだろうか? 

 また、このエッセイではビワアキピロが保坂に「ラップは豚の寝言」みたいなことを言って、保坂が同意している、とかそういう内容の文がにさらりと触れられていて、嫌な気分になった。この人の繰り返される(人気者らしく目にしたくなくても視界に入るのだ)「泉ピン子的」なげんなりしてしまう醜悪さを目に入れず、何であの人のファンは綺麗とか素晴らしいとか言えるのか、理解できないというかしたくない。ビワさんって俺も嫌いなイチハラチンタローと同程度のマッチョ自分大好き薄っぺらい人間だと思う。そりゃあチンタローに比べればずっとマシだと思うけれど、それにしても、自分自身にも周りにもツッコミが不在の状況って恐ろしいなあと思う。

 前回読んだエッセイ・小説の続き、保坂の『小説の誕生』を読みながら、一年以上前に感じながらも実行しなかった感想が蘇ってきた。それは、

クロソウスキーとミシェル・レリスを再読しなきゃなあ、ルーセル小島信夫を読まなきゃなあ、あらかわしゅうさくをいつも素通りしているんだけど、今回も素通りするんだろうなあ」

 といったもので、(ある一面で)思いつつも、何も進展していない自分が馬鹿らしく、にやけてしまった。そして(俺にとっては)にやけることのない保坂の長い言葉の中の、一部を取り上げたいと思う。



 文学というのはどれだけ絶望的な状況を書いても、この世界を肯定しようとしていなければならない、というのが私の文学観だ。息苦しい状況をひたすら息苦しく書いたり、悲惨なことをただ悲惨に書いたりするのは、文学を文学たらしめる何かが欠けている。「私は世界はいいものだ」「人間は素晴らしい」と書かなければいけないと言っているのではない」

ドストエフスキーの『死の家の記録』を引いて)非常に感覚的な説明になってしまうが、描かれる対象たる人間たちを見下ろし、「たかがこんなもの」「いつもこんなことしかしない」という風に書いたら、描かれた人間は作者より小さく映る。しかし収容所で出会った人間達は爆発する力を内に持っている。だから誰もが感嘆に値し、作者が彼らを感嘆する限り、彼らは作者より大きい。つまり計り知れない。


 文学的な道具立てに逃げ込む過剰に英雄的であったり退廃的であったりする小説は私が考える小説ではない。いまいる場所と別の場所に何かを求めるのではなく、今いるここを何かにしなければならない。


 保坂の言葉に大筋には共感する。彼は世界を豊かな物にしようと、豊かな世界を享受しようとしているのだ。小説家として、表現者としてまっとうな、まっとうすぎる、当然の態度、と言っても差支えはないだろう。で、豊かな小説が優れていたり(自分にとって)面白いものとは限らない。確かに、(面倒だったから)引用は控えた保坂が疑問を呈する小説群は退屈な物だったけれど、俺は保坂のように「パソコンが壊れてカスタマーサービスに二時間もクレームを言う」事は出来ないし、「ラップ(これはどんなジャンルにも置きかえられる)を豚の寝言」という「豚おっさんおばさん」の顔面を殴らずにはいられないし、頭がおかしくならない会社勤めなんて考えただけで「頭がおかしくなる」し、メロドラマチックな「文学的」な展開が貧しさと直結するとは思えない(最後の文に関しては、その比重が極めて高いことに対する警句だと思うが)。

 前回の日記でも触れたが、保坂は世界に対する親和性が信頼が高く(そう俺には思える)、そういう人にとっての世界像と俺のそれとは異なる。しかし、生きるということは、何か作品を作るということは、つまり肯定してしまっているということなのだ。肯定している、そのことを忘れて退廃的、とかそれに類する小説を書くと、自己陶酔の範疇を抜け出せないように思える。結局、肯定しているのではないか。恐ろしいことに。

 俺が耽美、とかに分類されてしまう作品を好みつつ、それを標榜する人々に信頼が置けないのは、特に唯美主義とか耽美主義とか言う人(存在する)が信じられないのは、「本当に美しいものだけを求めているならば、自殺するしかない、自分の存在を許せないはずだ」と確信しているからだ。だって、自分は、「唯美」に耐えられる程「美しい」か? ありえないだろ? てか、自分だけ特別に許しているなら、その馬鹿げた看板を下ろして欲しい。

 でも、保坂の言うように、健康的な解決方法、対峙、が最良とは思えない。誰でも、書くと言うことは、肯定していることだ。肯定に結びついてしまっていることだ。おぞましい、影のように臓腑のように仲良しな恒常性のように労働のように、俺からずっと離れない問題だ。それを、メロドラマチックに、ユーモラスに作品としてまとめることが、今俺が思うことだ。それが、俺にとって世界を豊かにすることだが、それを進歩だとか後退だとか停滞だとか思わないし、どうでもいい。前に進むこと、なんて気分がいいものかもしれないが俺にとっては、少しだけ、の話だ。数時間で変わる気分を友に、やり過ごすしかないのだ。ユーモラスだろ馬鹿げているだろ?