ハーディン様! ……そのような御姿になられて!!

保坂の三部作(?)の最後、『小説、世界の奏でる音楽』を再読。三冊読み終えてやっぱり俺とは色々違う、と思い、少し、読み進めるのが嫌になる個所もありつつも、やはり、面白かった。前回とかの日記でもそうだけれど、この雑多な内容の本の一面に触れているだけだということを最初に断わっておく。ていうか、この本の全てに興味あるわけでも興味あってここにだらだら書きたいわけでもないし。

 保坂はこの本の中で自然に風景描写に感動する、ということをしきりに言っていて、確かにそういう瞬間はあるけれど、俺にとってはそういう瞬間もある、程度のことで、

 「紅葉にはまだ早く山は秋の陽射しで猛々しい緑に輝いていた。しかし二か月前に葉山に行ったときには葉山の山がすぐそこまで迫っていて、本来の目的だった美術館のジャコメッティ展よりも山の方こそ見る価値があると思わずにはいられなかった」なんて文章を書けてしまうのにも関わらず意味に回収される文章を批判するのは筋違いだと感じた。保坂はジャコメッティを評価しているし、俺も意味に回収される小説はつまらないものが多いと思っている、けれど、この自然と対峙、存在の不思議、感覚体験、は意味への志向と似たり寄ったりで、それに対して猛烈に批判を繰り広げる人の言葉だろうか、と疑問だった。それに文学の不死性、とか喋られたら、もう、ほんと、どうでもいい。

 で、「現役の小説家として他の人の書いている小説の手の内はほとんど全部分かるし、それをやろうと思えば自分にやれないとは思わない。実際にやるやらないは別にして(中略)私は正直者だからこんなことを書いてしまうが、他の人たちだってたいていみんなそういう風なことは考えているわけで、「こういうことは自分にはできない」と本当に感じたときに脱帽する」という文章を目にして、俺は「だつぼー」した。

 この後にその保坂が脱帽した(俺も読んでみたいと思った)優れた作品の紹介に移るので、俺の意見は文章の意図に対しては的外れではあるのだが、書く。他の小説家も似たようなことを考えているだろう、という点は俺もそうだと思うが、それを口にするのが正直者だからではなく、単に構造への信頼が強いかどうかが問題ではないだろうか。意味に回収される文学的な文章、は信頼していなくても構造に対する信頼があるならば似たようなもんだろ、どっちもいい、てかどうでもいいから仲良くすればいいよ、と思う。俺はどっちも、そこそこ信頼しているから。そういう態度しかとれないだろうから。

 保坂がフロイトラカンの言葉を引くのも何だか、俺には構造への信頼っぽくて、どうかなあ、と思った。てか、何で意味を批判する人が、全面的に因るのではないとしても、心理学の援用をするのだろうか? 俺は心理学は便利で有用であるけれど、その言葉を引くのは、ためらわれる。だって、事例を妥当性の高さから判断して意味に回収しているんじゃん。「そういうこともある」ってことじゃん。「そういうこともある」事例を集めて強固な意味を出現させてんじゃん。保坂が他のエッセイで、「長年身をひそめていた男の復活劇が文句なしに好きだ(細部は違うかもしれないが、その違いは意味をなさない)」とか言っていたけれど、そういった抗いがたいフェティッシュとの戯れ(それがない人は、色々なものがないのだ、なくても暮らせるのだ)がセックストラウマバイオレンスドラッグ風俗終わりのない日常、だとして、それを誰かが量産しても別にいいじゃん、と思う。いいじゃん、というか、どうでもいいじゃん。それに対して文章に向き合っていない、と俺も思う場合が極めて多いように思われるのだが、俺はそんなに人々に期待や信頼を抱いていない。諦観や達観ではなく、なんならそれを寛容、と言ってもそこまで的外れではないだろう。そういう態度なのだ。保坂の言葉に反応ができなくても仕方がない、とそう思う。

 そういえば「アメリカのおっきなビルにひこうきボーン」があった時に「げんじつがしょーちょーかいにせっきんした」とかそんなことを言ってたおっさんがいてマジでびっくりした。ヤバイ位センチメンタルエロオッサンじゃないすかー。そーゆーのはぶんだんばーとかでしてくださいよー。

 って、保坂とそのおっさん(マジで誰か忘れた)と同列に扱うのは失礼、というか、ふと、何だか保坂のエッセイの態度と高橋源一郎の態度(文章)とが似ているような気がしてきて、この前読んだ高橋の真面目な、保坂のこの本のように小説について考えた『ニッポンの小説』を想起する。そういえば、保坂や高橋が褒めている新人作家がことごとく俺の肌に合わなかったりどーでもよかったりするのも似ている。俺と彼らとは違う、けれど、それなりの敬意は払っているつもりだ。だって、敬意がないと書かないもん(この文章を読んだ彼らが不快に思うのとは別問題だ。ほぼ確実に読まないだろうけど)。

 で、超久しぶりに高橋の前述した本と同時期に書かれた『いつかソウル・トレインに乗る日まで』を読んでみると、以前革命に参加していた老年男性がソウルに赴きかつての恋人の娘と愛とかについて考える実践する、というこんな文章にしたら読む気が超失せる小説で、でも、全部読んだ。げんなりも感動もしなかった。正直前述した本の内容が結構よかったので、これが高橋の『ニッポンの小説』かあ、と思えば、本当に感想が湧いてきてくれないのだが、高橋がこれで書くこと、考えることを止めるわけではないのだ。ただの読者の俺は、適当についていけばいいだけなのだ。

 保坂はこの本のあとがきで

「三十六回の連載を通じて私はほとんどの小説を追い越してしまったようにも感じている。なんといえばいいか、読む前からそういう小説があることを知っていて、読みながらどれだけ新しいことを知ったり強い刺激を受けたからといって、それがすでに知っていた小説という領域の中でなされたものであるかぎり私にとっての関心の対象でない、というこここまではいまさら言うまでもないこととして、私は一流打者が投手の手から離れた球が止まって見えると言うように、小説が止まって見えるようになった。これとまったく同じ意味だが、小説が動いてしょうがなく見える瞬間も持つようになった」

 という文章を書いているのだが、何度も引用している文章と同じく、この人は構造と、自分に、とても信頼をしているのだなあ、と感じた。何百だか何千だか何万(これはないか)だか、多少は意識的に読んでいたら止まったとか追い越した、に似た感覚を誰だって抱くだろうし(保坂の「止まった」「追い越した」を俺は絶対に知ることがないのだ)、それを口にしないのは、構造外への敬意からだと思う。少なくとも俺はそうだ。でも、保坂は楽しそうだ、と思った。高橋もきっとそうだ。上から見ているとか馬鹿にしているとかでは決してない。それは素敵なことだと思う。

 大学の頃は「は? 何この人こんなこといってんのはずかしくねーのかよ」っていう年上の人や同年代の人、の言葉を直接耳にする機会がそこそこあった。社交的とは言えずにさらにかなり短気(を顔には出さない)な俺でさえ、そういった体験はあった。

 気がつくと、読書に限らず自分の好きなものばかりで固めている、というか腹の立つかもしれないものや気分が悪くなると思っているものを視界に入れないような生活をしていることに気付く。それは当然の事ではあるのだが、(だってそんなん進んでしてるのってありえないだろ)どこか居心地の悪いことだ。居心地の悪さを、意識しなければ、俺は駄目になる。異物を排除することが常態化している(この文を読んでも何も感じない)人は、何だか信用がおけない。労働が入ると、もう、労働だけで虜になってしまうから、勘弁して欲しくなるけれど。

 色々なものを知りたいと思う。楽しいから。理解できる、血肉にできる言葉は少ないだろうけれど、嫌な気分になることも、まあ、それなりに大切なことだと思う。だから、「あんまり合わない」保坂や高橋の言葉に触れることができる俺は「有難い」と思っている。俺も彼らのように楽しいのが好きだ。で、DSのファイアーエムブレムの新作を買ってしまいまして、今プレイしていてこんな文章書いているよりも早くマルスとハーディンブチ殺しに行かなきゃいけなくって、このゲームのせいでまた溜まっている本を読むのが遅くなるっていうか小説もかかなきゃなあ、と思いながらマルスと(今回は自分もユニットになれる)ハーディンブチ殺しにいかなけれな「ならない」んだからうだうだしてないで、マルスとハーディンブチ殺しに行ってきます!