手を振っていたのは

 宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』を読む。その次に更科と出した本と似たような主張が載っていて、この二冊を合わせて読むと著者の主張の大体がつかめるだろう。

 大雑把にいえば、自慰メディア島宇宙レイプファンタジーから抜け出し、人と話せるようになろう。という、まっとう、というか学校の先生的な主張で、まあ、ある一面では正しいよね、というか、宇野の切り取った一面がとても恣意的に思えて、社会学や評論ってやっぱ俺にはあまり必要じゃないものかなあ、とまた、思った。チャートを作って、そこにうまく「象徴的(この言葉が嫌いだ)にした」ピースを落としこむゲームに見えて仕方がないのだ。その手腕がうまければ、そりゃあ「おー」とは思うけれど、俺にとっては「すごいけれど」、「おー」程度のことだ。でも、それがすごいならばすごい、には変わりがないし、有用でもある。前述した共著で更科が口にしたように、それだけではなくても、やはり、「生きにくい人の為の自己肯定ツール」に近い役割をしているのだから。

 彼のこの本をもって社会学だの評論だのの名前を挙げるのはどうかとも思うけれど、彼の熱気の溢れる初めての本には、俺の考えるそういったものの悪い面も有用的な面も含まれていたのだ。

 特にそれを強く感じたのは、レイプファンタジー(難病や白痴的美少女にたいして言い訳を用意させるエロゲー)とセカイ系への批判についてだ。まず、俺はエロゲーセカイ系も、きちんとプレイ、読んだことはないし、むしろ、宇野と同様に生理的に無理なジャンルのものだ。だって、あまりにもご都合主義的で、とても食指が動かない。

 のだけれど、それはあくまで趣味の問題であり、大抵の人は都合のよいメディア、小説でも漫画でもアニメでもドラマでも何でもいいけれど、そういったものを必要としているのだ。御都合主義のドラマが必要じゃない人がいるなんて、信じられない(それが会社でも清楚なお嬢様でも何でもいい)。そのこと自体を執拗に責めるのはどうにも理解しがたい。「ラストでアスカに振られないエヴァ」を、俺もしっくりこないと思うけれど、それをユーザーに突き付ける(焚きつける)のが、正しいことだろうか? 

 正しい、という言葉を使ったが、宇野は自分が正しいとかとても有益であるというか、そういった感覚から出発しているように思える、というか、部外者から見るとそういう(傾向が強い)人間しか「チャート」で世界を切り取り提出する作業ができないのではないか、と感じた。以前の日記で言及したように、彼は人をゴキブリと言っても平気な、優等生だ、ということだ。

 前の日記でも告げたが、論旨や(やはりあまり褒めるべきではない)粗雑さを問題にするよりも、彼の意志は評価されるべきだし、彼のこれからの発言も数十歩あとから(図書館で借りられたら)追っていきたいと思っている。彼も「興味深い島宇宙の一つ」なのだから。

 最近保坂和志のエッセイ、というか取りとめのないしかし込み入った小説について考えることを目的とした独白、といった内容の『小説の自由』三部作(今出ている時点で)を読み返している。その一冊目の『小説の自由』を読み終え、そういえばこの本を最初に読み終えた時に刺激的な個所もありながらも、あまり感想を抱かなかったなあ、ということを想起した。それはこの本の豊かで散漫な内容に因る部分も大いだろうが、あくまで俺にとってこの本は、良く分かる、というか共通了解だろ、とすら思っている部分と、正直どうでもいい、というか興味ねーっす、と言う部分で成り立っているからだ。



 「自分で考えようとしていることが、どういうことあのか自分自身でもよくわかっていない」ことを書くから、書くことは難しい。


 「わかる」こと、「わかろうとする」ことが、結局、小説を読む前に持っていた自分の思考の材料を更新することではなく、事前にあったそれらで小説を腑分けすることでしかないということを示している。

 とか、「ゴドー」は何かを考える意味がないと言った主張は、とても分かりが良すぎて、あまり感想が湧かない。その中で、俺は保坂の小説やエッセイを7割位は目にしている(つまり好きだってことだ)くせに、その文章に惹かれているような気がしない。彼の文章の出来や姿勢に云々するようなそんな気はない。これは、趣味の問題だ。

 保坂の小説に登場する人物には、保坂が批判するような、意味に回収される(危険性がある)ような出来事が起こらない。それは、保坂にとってそういった「餌」が必要ではない、世界に対する、人に対する信頼が彼にはあるのだ。宇野や保坂が会社勤めが「できていた」ことを俺は思う。彼らは、会社勤めが出来る、或いはその結果おかしくならないで済むような人なのだろう。会社に勤めをしていたことを問題にすべきではないのだけれど、俺には、「会社勤めが普通に出来ている(実際のところは本人にしか分からないし、この問いに大した意味はない)」人なんだー、とそういった感情を抱いてしまう。それは、彼らの著作から社会(他者)世界(現象)への信頼を見出すのだ。一方俺はと言えば、怯えのような吐き気のようなしかし、確かにそれだけではいられないそんな自分の状況を思い浮かべてしまう。『三十歳までなんか生きるなと思っていた』とか口にして、いい年のフリーターをのんきに褒める会社勤めから専業作家になった保坂の面の皮の厚さ(勿論褒め言葉だ)と俺の面の皮の厚さは別物なのだ。

 彼らが、或いは目立つ名前の人々が否定する、(露悪的な言葉で言えば)自慰メディアに関して、狭義で(としか言いようがない)は自分の作品としているものは「彼らのように」距離を取っていると思っている。というか、距離をとらないと、残酷ささえ許されないのが現象だろ、と考えていないと不自然だろ(その作品がそれを許容すべきであるならば構わない)と考えている。

 にしても、それを必要としている人は、いるのだ。例えば、それが同人誌の二次創作だったら、「素人のお遊び」だったら、批判をしなかったのだろうか? 宇野の意見は誰かが言わねばならない、誰かが思っていたものだったのだと思う。それに加えて、それはそれを言われた人々によって乗り越えられなければならないことなのだ。だって、そんな他人の意見で壊れるような思い入れ(萌え)ならば、壊れたっていいだろ、と思うから。でも、それは俺の態度で、攻撃(実際には攻撃じゃないけど)されるだけで過敏に反応する人は多いだろう。俺はそういったゲームに参加したくない、と思う。

 良心的な、妥当性の高いように思える言葉を目にすると、そうか、という気にはなる。けれど、それだけを信じてはいけない。発言者の彼らが悪いと信じてはいけないとかそういう問題ではない。俺は『さかしま』の嫌味を忘れてはならない。新しいように見える、前に進んでいるように見えるものが自分にとって正しいものだとは限らないのだ。「彼ら」が紹介するものらは口に出すその言葉は刺激的で、やはり回収されるような内省は退屈なのかもしれない、けれどそれに似たようなもので俺は暮らしていけているのだ、だって、「彼らの」流儀である信頼がないのだから、コミットメントできない人間の生き方があるのだ。俺はそれを忘れてはいけない。