アホなんかアホなのか

メタルマックス3。さっさとクリアしなきゃ、と思う。そればっかプレイしているのだから仕方がない。飽きても当然だ。さっさと新しいゲームに飽きることができますように。

 ゲームセンターに月に一度位は行く。行くくせに、プレイしないこともある。ゲームセンターの雰囲気を、数分だけ味わうのは好きだ。

 中でも一番「見ていて」楽しいのが、メダルゲームかもしれない。別にプレイしている人を観察するなんて趣味はない。ただ、メダルゲームがそこにある、稼働出来ている、客がついていることを確認できるだけでいい。

 お金を支払いメダルを買う。一応、そのメダルを増やすというような目的はあるにせよ。大抵飲まれる。ていうか、飲まれなかったら(胴元的立場が金銭的に勝利しなければ)アーケード・ゲームじゃない。それに幾らメダルを集めても、きっと、その大量のメダルを手にした人は、メダルを「更に」「雑に」扱い、失おうとする、ような気がするのだ。

 最近は余ったメダルの保存をしてくれるゲームセンターが主流らしいのだが、俺は十年以上前のゲームセンターではそういうサービスはなかったように記憶している。断然、そういうサービスはない方が俺の好みだ。意味のない(といってもいい)、安っぽい、ビカビカした、楽しみ。俺のプレイしているRPGよりももっと、非生産的な「ビカビカ」に、惹かれる。ちなみに、俺はメダルゲームを十年近くプレイしていない。


 メダルゲームには惹かれるが、玉打ちには惹かれない。どこかでなくなるべき、だと感じてもいる。あれの悪いところは、金がもうかってしまう所だと思う。以前新宿に住んでいた時、早朝の開店待ちの灰色の列を横目で見て、何だか『いやな感じ』になったことを記憶している。玉打ち屋は今やどこにでもある。どこにでも、(結局は)金を求めた列が出来る。趣味の問題とは言え『いやな感じ』だ。

 高見順の『いやな感じ』を自著で好意的に取り上げていた某ふくーださんの新しい著作を読み、彼が「しょーわてんのー」が死んでショック! とかそんなことを言っていて、びっくりした(というか、彼は丸々一冊てんのーの本も書いてるの、しかも続き物、それ知ってるし、よまんけど)。馬鹿にしているのではなくて、自分にそういった感覚が無いので。今の十代、二十代、三十代でも、こういった反応は普通かもしれないが、俺は、驚く、というか、そう、「びっくり」したのだ。彼のその帰属意識に。

 個人的にその人がだれであろうと「○○様」と呼ぶのが決まり文句になっている事態はおかしなことだと思う。自ずから敬意を払う際にその呼称は使われるべきだ、けれどそんなことをしていたら「労働」に、ひいては「社会生活」にさし障りがある。そんな馬鹿なことをする必要性は薄い。恒常性の為の制度、でもある、のだから、「○○様」とか「○○陛下」と呼ぶ善意の人々は、自分がその対象の人権を踏みにじってもいることを知るべきではないか、と思う。ほんとーにただ、思うだけだけど。俺のエゴで彼らの生活を侵害するつもりはない。

 思えば、今活躍している批評家やら評論家やらという肩書を持つ人は帰属意識の高い、優等生が揃っているように思える。何を今更、そんなことを思うのか、と自分のことながらあほらしくもあるのだが、その着想は中々(俺にとっては)興味深いものだった。彼らには規範があり、だからこそその能力を発揮する場所を確保し、力を発揮できているのだ。そんな当たり前の事に頼もしさと、「○○様」と声を上げる善意の人の持つ、不気味な健康さに対する恐れとを覚える。『いやな感じ』だ。

 漫画やゲームでは、たびたび「特権的な血」というモチーフが扱われる。実は○○の子で、子孫で、主人公達はドラマチックな御都合主義な超能力を発揮することが出来るのだ。これを現代に持ってくると、酷く滑稽なことになる。私は○○の血を引いているから優れているのです、なんて、共同体への、(テレビドラマのモチーフとして放送に耐えうるようなつまり視聴者が困惑しないような)恒常性への、帰属意識よりももっとアホなことになる。父方の誰それは○○大出で、今は○○省に勤めております。なんてのはアクセサリー感覚だから数には入れない。もっと、切実に、本を書く以上の情熱で、「血」を信じているならば、酷く滑稽で、目を惹いてしまわないだろうか?

 ふくーだ、で連想した三島の言い分の一つ、「だって俺に時計くれたんだから、嫌いになんかなれないよ、いや、違う、そういうんじゃなくて、普通に、俺好きだよ」は、可愛いから、ここでは除外する(ていうか俺のこの書き方が〔キモち〕悪いんではないでしょうか……)。俺が今考えてみたいのは、もっとアホっぽい、ヒトラー的な選民主義としての、絶対的な、「血」についてだ。人種差別とかというよりも、自らが属するものを高潔だと信じて疑わない、つまり滑稽すぎる、血についてだ。新興宗教の教祖とか(80年代に一部で流行ったらしい)転生を信じる人々とかでは生温い。俺がさっぱり信用を置けない歴史に裏打ちされた、「血族」としての誇りを持つ、なんて今の日本において、あまりにも「ありえなくて」興味深い。しかもそれは衰えを知らないのだ。生まれた時から、その血族としての、絶対的な肯定と、他者への(表には出さないにせよ)蔑みが形成されているのだ。

 これは多分、メダルゲーム(をプレイしている人)のように、俺の好みだ。俺は血を信じないし、メダルゲームもプレイしないけれど、メダルゲームをプレイしている人や「王的血族」を聞いて血潮が熱くなるような人は、割と好きかも知れない。俺とは違うけれど、どこかで、同じようなアホだと思うから。広義での帰属は否定するような要素がないし、何であれ行為には肯定の意味合いを孕んでいる、だからこそ、俺は優等生的な人(でもこれはとても少数の、成りえるには困難な事柄なのだ)に、アホな人に興味がある。自分がかなりアホ寄りなので、やっぱりアホに対してのひいきがあるけれど、でも、俺にとって彼らは思いがけない、目を引く他者であり続けるのだ。彼らは、現象について、肯定について、考える時間をくれる。俺にはメダルゲームも真面目に労働+勉強も無理っぽいけれど、まあ、それでも大丈夫、だと思う。ってことにして。