くーらー涼しい

 職無く、家にこもっているのに相応しくないこのうだるような暑さ。やる気というか考える気を削ぐこの暑さ。つまらない事情で、家の中よりも外の方が涼しいという始末で、こんな状態で本なんて読むもんじゃなあい。俺は毎日サプリメントを飲んでいるけれど、一日必要な諸栄養素を広くフォローしているそのサプリの、栄養素が十分に吸収されているとは思っていない。また、(ごく微量の)パッケージには明記されないような成分も身体には必要だ。読書に関しても、まともな環境でまともな精神状態の時にするべきだそれがどうかした?

 でも、本当にまいって、クーラーを浴びにレンタルショップへ行った。

 一応家にはクーラーはある。けれど一度も使っていない。そして俺はクーラーのリモコンをどこかに無くしてしまったのだ。これまでに二、三度、広くない家のあちこちを探しては見たのだが、リモコンは見つからなかった。どうせ使わないしいいべ、とは思っていたが、何かの折にネットで調べると、クーラーは一時間10円程度しかかからないらしい。広さと機種と設定温度等にもよるだろうが、10円て! 俺の節約(かどうか自分でも分からない)は何だったんだ、と気合を入れて家中を探す、汗がだらだら流れ、髪は通り雨を浴びたように濡れ、狭い家に物があり過ぎて、しかも整頓が為されていないことに改めて気付き、ふと、これは人の住む家なのか、と思った。住んでんだよ馬鹿。ええと、馬鹿は誰の事だろう。リモコンだけネットで買えば、と何度か思ったが。、届くのは九月になるだろう。二千円程度の金も惜しい。てかそんなん軽く出せたら初めからクーラーしてるって。てかさ、夏の盛りを終えてリモコンを買うとか、馬鹿? 頭を冷やす為に、シャワーを浴びて汗を洗い流し、汗をかきレンタルショップに向かう。

 名前は知っていて、楽しめるんだろう、と思いつつも見ていなかった『ファイトクラブ』と、あと陰気なのを借りた。映画を見るのは半月ぶりかも。有名なのであらすじを知っている『ファイトクラブ』は、気軽に楽しめるだろうと確信していた。主人公は不眠症の、疲れきっている、刺激が欲しいエリート(っぽい)サラリーマン、彼が男同士で殴りあう「ファイトクラブ」を作り上げる、引き込まれる、といったような内容。最近、酷い時には一日四、五回に分けて一、二時間睡眠をとる、という生活を送っていて失職することにした俺にはうってつけだね、なあ、ブラピ!(の映画を初めて見た。俺は映画好きじゃないから。自分の好きな映画ばかり見ようとするから)。

 何故か字幕に音声吹き替えだった。俺は吹き替えで見ることはまずない。でも操作が分からない。勝手に吹き替えで始まったのだ。でもこの方が好都合だった。画面を見なくてもいいのだ。実際、画面も音楽も片手間で見るのに十分、十分良くできている、ラグジュアリーテレビジョンバラエティー(こんな言葉はない)。ネットで、売り払ったゲームの攻略サイトをチェックしながら、映画を見ていた。俺は攻略した(したい)ゲームの攻略サイトや攻略本がとても好きだ。何度も見直す。データを見るのだけで十分楽しい。小学生の頃、あまり親しくない友人が鉄道の時刻表を見るのが趣味だと言っていて、「うわあ、くらいなあ」と思ったが、俺の趣味、視聴方法も人によっては「うわあ」な部類だろう。

 うわあ、と言えば、少し前に、某氏の名前負けしている新作、評論とか、を(興味のある部分だけ)読み、その中で舞城と佐藤を子供、としてやや肯定的に扱っている部分があって、それはどうかなあ、と二人の本をまともに読んだことのない(くせに)、俺は強く感じた。てか、ふくーだ(あ、また名前出しちった)のこの本読んだの一週間以上前だし、読み返す気ないし単に彼らが子供っぽくない、という俺の感想として話を進めると、子供っぽいって、ジュネやセリーヌマンディアルグとかに相応しい形容というか、舞城や佐藤の小説って、大人が子供の作法で書いている感じがして、苦手なのだ。COMME des GARCON じゃなくてコムサ、みたいないや別にコムサを馬鹿にしているんじゃなくて、いやでもね、みたいな、俺自身が嫌な感じになって、だから俺は読めないのだ。何冊か読んでから「感想」を抱くべきだとは思っても、どうしても読み進める気にはなれない。俺にとってはル・クレジオでぎり、というかジョイスマルケスも無理で絶対そうだろうと思っているからピンチョンは読んでない。うーんそれなら驚きが大人の仕掛け(天才少年とかそういうのは幻想でしかなくて、信じている人は知への信頼が強いのだ。早熟の、なんて利便性以外の意味は持たない。勿論とても優秀な人はいるだろうが、優秀さに俺はたいして惹かれない)がなくても『ファイトクラブ』みたいな高級殴り合いの方で俺はいいよ、と思う。

 終わり方(だけ)は少し(だけ)好きなファイトクラブを見終えても俺のファイトはすり減ったまま、懲りもせず部屋の中をあさっていると、簡単に見つけてしまったリモコン本の山の間に(そこは探したはずだが)挟まっていたリモコン、をつけるとひんやりとした風が吹いてきて屍上手な僕は扇風機も併用してとてもすずしくなってとてもよかったです。

 よかったついでに、昨日森本美由紀の『ファッションイラストレーションの描き方』を読んだのだけれど、それもとてもよかったです、な本だった。ていうか、森本美由紀のイラストが載っている本というだけで、とってもよかったです、な本だ。彼女は本書の「自分が惹かれるものを見つける」、という項目で、バーキン、バルドー、バルタン、ドヌーブ、らを挙げているのだが、その、「ベタ」な、彼女のファンにとってはわかりきったチョイスにもわくわくする。「ピンチョンとマルケスジョイスプルーストが好きです」、とかさ、超「ベタ」じゃん、ベタっていいよね!! センスいいとか、真面目な感じ! 
 
 そんな、阿保なベタ話、よりもずっと俺がわくわくするのは、彼女の描くモノクロの線だ。(ファッション)イラストとして、線の省略が多い、すっきりとした構成の美は中々出来るものではない。過剰な、といってもいい、水彩画のような淡いイラスト(レーター)も好きだけれど、森本美由紀のイラストは、はっとするような、そんなイラストなのだ。特に俺は彼女のモノクロの作品が好きだ。写真家アーヴィング・ペンを想起させるようなコントラストの利いた硬質な画面作り、それでいて欠損を瞳で補うように出来ている、優れたイラストレーションなのだ。

 水彩画、というかカラフルな色遣いが魅力の、イラストレーターも大好きで、小林智美岸田メルとか、彼らのイラストは、そのイラストの世界に入りたくなるような魅力を持っている。森本のイラストとは方向性が(てか発表媒体が違うから当たり前だ)違う魅力を備えている。

 西井一夫の『なぜ未だ「プロヴォーク」か』という1996年に発行された本を読んでいて、「プロヴォーク」、森山大道中平卓馬らを中心に書かれているこの本自体は、彼らを好んでいる俺にあまり目新しい情報をくれはしなかったのだけれど、森山、中平について考える時間をくれる、「きわめてよい」とまでは言えなくても、好著だった。プロヴォークの中身が掲載されているのもよかった(すげー蛇足だけど、高梨さんのファッション写真的アプローチの幾つかの写真よりも森本の商業的にも通用するイラストレーションの方がずっと「はっと」するものでした個人的に。でも高梨さんも、好き、です)。

 彼ら二人について考えることは、きっと、写真って何だろう、という問いに収斂される。俺が写真と十分な距離があるから、こんな台詞を口に出せるのだ、とは思うが、彼らのセンチメンタルな戦いは、「子供」っぽくて、好きだ。

 今、一万円で一千万画素のデジカメが買えるという、なんともな時代になってきていて、はなから写真家になる気のない俺は、数十万円のカメラを使わなくてもいい、使うべきではない(作家自身が)スタイルだとして、ポートレイトや、風景以外の何を自分の署名と共に提出できるのだろう、なんて、写真への情熱のない感想が頭をよぎり、優れた写真家の名前くらいは知っているくせに、どこかで、自分が古臭い人々にばかり惹かれているのを、怠慢なのか趣味の問題なのか、と、写真だけにはとどまらない、答えなんて出ないこの問題を改めて想起させる。

 存在について、「はっと」する瞬間について、それはカラフルな世界でも(俺にとっての)「大人」の優れた言葉でもなくて、それはやはり子供の言葉により想起させるもので、その問いかけがいかにも子供らしく、大人に比べどこか稚拙で、看過すべきではない裂け目を孕んでありながらも、「美には傷以外の起源はない」と言ってしまえる、それでもなおかっこいいジュネのような、蛮勇には強く惹かれまた、何度口にしても足りない位、蛮勇こそ必要だと蛮勇により為されるのだとそう思う。思ったことは、何度も口にしていい。特にこれは「日記」なのだから。くーらー気持ちいい。