ねえどうして今は景気が悪いの資本主義はきっと恋愛よりも難しいのね

 酷く調子が悪くなって、なんとか休もうとはするのだけれど、瞳を閉じることが逃避なのだと(馬鹿げているけれど)意識してしまい、冷房のきいた寒い部屋で布団を頭からかぶり、一向に気は収まらず、要約外に出る決心をする、と、とたんに枷が外れたような気分になる、生温い外気に感謝。

 アマゾンでCDを購入したりレンタルしたり、ということが増えていて、久しぶりにディスク・ユニオンとレコファンに行って、CDをジャケ買いした。今なら気になるアーティストの曲はMy spaceyou tubeやらで視聴できるのだから、すっかりジャケ買いの楽しさを忘れていた。そんなことをしている場合でもないのかもしれないが、買わなきゃやってられない。

 調子づいて本屋で小林智美の画集を見つけ、購入しようか、迷いながらめくってみると、画集と言うよりもゲームや本の依頼に対して描いた、いわゆるイラスト集で、欲しいことは欲しいのだけれど、立ち読みで気分がすんでしまった。あと、最近めざましい活躍をしている中村明日美子の『呼出し一』を読む。正直に言って、中村さんは初期の、fに連載していた路線の話が一番好きなんだけれど(そして画風的にも合っていると思うんだけれど。萩尾望都はやっぱりヨーロッパの少年、みたいな)、色々なジャンルのを描けてすごいなあ、と思っていた。

 この人は水野純子みたいに、画は乱暴に言うと耽美、エロ、グロ、みたいなカテゴリーで分類されてしまうと思うけれど、水野純子同様、きちんと人間を描いている所に、ユーモアが表現できる所に力量が現れていると思う(コマ割も美しい!)。耽美、エロ、グロ、で、閉じた、ナルシスティックな世界は辟易する場合が多い。だって、それって反転した(タチの悪い)ハーレム超御都合主義萌え漫画ってことじゃん。ニッチ向けの嗜好品じゃん(それを否定することは出来ないんだけど、趣味の問題だから。でも、「漫画」として見ると、どーよと思う。超御都合主義萌え漫画を受容している人の多くは、漫画として見ていないと思うんだけれど)。

 そんな中村先生の作品を、最近はあまりにも出過ぎていて、そして「明るい」良作が増えていて、あまりチェックしていなかったんだけれど、久しぶりに読み、他のも読まなきゃなーとぼんやりと思い、後で、先生が仕事し過ぎで休筆することを知る。活躍はいいけれど、やっぱ仕事し過ぎだってばよ。しっかり休息とって下さい、と俺が描くのは滑稽だ。

 買ったCDの中の一番の当たりが、beach hoppersの [tender treatment]
女性ボーカルのアンビエント・ミュージック。ドイツのレモングラスというグループの人がフランス人ボーカリストを迎えて作ったアルバムらしい。レモングラス。レモンヘッズしかしらない、けど、機会があったらそっちも聞きたい。アンビエント。俺に今一番足りないものじゃないか!! (でも「アンビエント」だって「チルアウト」だって、十分俺を疲れさせる)。

 少し、気分が良くなってきて、放置していた菊地成孔大谷能生『アフロ・ディズニー エイゼン・シュタインから「オタク=黒人」まで』を読む。何度か書いているが、俺はこの人の文章を読むと、「うわあ」な気分になって、中々読むことができない(この本では大谷と菊地の現代美術に対しての講義が収録されているのだけれど、わざとどちらの発言だ、と分けていない。菊地の他の著作も読んでいるので、以下、これを菊地の発言だとして日記を書いていく)。というか、この人の文章を「ふつう」に読める人が俺には信じられない(馬鹿にしているんではなくて)。蓮實の(エピゴーネンの)文章に対して、嫌悪を口に出す人の言葉が頭に浮かんだ。俺は蓮實の文章を(解読出来ているという意味ではなく)ふつうに読めるけど。俺しいたけが超嫌いなんだけど、しいたけの丸焼きを食べられる人見たときみたいな。

 それでも菊地の文章を読もうと思うのは、彼の取り扱う題材への関心もあるが、また、俺が苦手な、あの陶酔衒学趣味が、そのまま、彼の文章の魅力にもなっていることは、明らかだ。彼のつける題名は、とても魅力的なのだ。『憂鬱と官能を教た学校』『スペインの宇宙食』スパンク・ハッピーの曲、そして、今作も。

 でも、曲や本の題名ならば良くても、その「スノッブ」っぷりは、講義や評論に向いているのか、と思う。前もって彼(ら)は専門家ではないことを口にしながら、何度もフロイトやらドゥルーズやらの名前を出し、かなり恣意的で陶酔的な「講義」を展開する。マクルーハンやボードリヤル(しかし彼らは学者だ!)に似た、胡散臭さ。あ、ロラン・バルトも、良さが分かりません。てか、そんなの一面だろ、みたいな。記号は世界を矮小にしているんじゃね、どうせ造語と詩的領域に逃げ込むんだろ、みたいな。この講義は(前期、この本に収録されている分)全九回に分けられているんだけれど、その全ての冒頭に、哲学者や評論家らの言葉が引かれてあるのも、「スノッブ」だなあ、と思った。講義をためしに一つ、引用してみると、

「第六回を始めます。因みにこの講義は前期が全九回ですが、各トピック群は、切断されシャッフルされ、例えるならば地下茎的に、あるいはアクションペインティング的にまき散らし、各回のタイムアウトの段階でいったん終了とし、その後、前期の講義録を事後的にまとめてから――わたしが演奏家であることと、余りに密接過ぎる関係性をイメージしないで頂きたいのですが、言ってみればこれは、即興演奏を録音し、その後アナリーゼする行為と、ほとんど、というより、全く同じです――」

 とか、こういうのが大丈夫な人には、かなり楽しめる本だと思う。個人的に一番ヒットしたのが、講義の最終回の冒頭に、ブニュエルの文章を引用した部分で


「わたしは衒学趣味と、専門家気どりの小難しい用語が大嫌いだ(中略)わたしは彼に何を教えているのか尋ねた。彼曰く「クローン映像の記号学です」。殺してやってもよかったのだが。
 小難しい用語をふりまわすペダンティスムは、パリ的現象の典型で、後進諸国にかなしい惨禍をもたらしている。文化的植民地化の、まごうことなきしるしである。」

 いやあ、もう、さすが「スノッブ」っすね、と思った。きっと、これは読書ではなくて、「サロン・ド・キクチの優雅な社交界(社交術)」を堪能する、それに参加するということなんだ! 楽しい会話の最中に、会話を楽しむことに対して、時代考証は、出典は、その理解は間違っています、なんて一々言うのか! ふざけんな! 俺は「本」が読みたいんだ本が根底が(便利な言葉)堅牢な檻のような本が! いや、別に、ほんというと、本じゃなくても、いいかな。活字読むの、疲れるし。楽しめれば何でもいいよ、てかさ、スノッブでもナルシスとでもディレッタントでも何でもいいけれど、彼らに対して何だか残念に思うのは、彼らの基盤は決して揺るがないんだよね。自己肯定、生存、承認への欲求が強いというか、素敵な趣味の、自立している大人って感じで。

 菊地(大谷)はこの本で漫画的な幼稚さ、全能感への欲求や傾向についても語っていたけれど、俺にとっては、性愛や労働が基盤にある限り、人はとても幼稚なんだと思う。それがタコツボ的なのか、社交に長けているのかの違いはあっても。俺は正直、自分の事をちょっとどうしようもねーな、と「残念に」思っているけれど、やっぱ(広義で)幼稚なのは、控えたいなーと思っている。子供であることと幼稚であることとは違う。なんにせよ、生命を維持する為に、品の無さやら幼稚やらを受けおわなければならないし、俺はそれを、多分、酷く恐れている。その恐れが怒りに転化することは、幼稚で、やはり避けたいと思っている。スノッブに熱心に説教するとしたら馬鹿らしいでしょ。

 ともかく、菊地さんのサロンでのお話しは、色々と考えることが多い。あ、すごいな、面白いなって思った個所もあるよ。引用しないし言及しないけど。やっぱり自分と「とても」違う人は面白い。し、何だか、音楽を本を、消費したい、消費しなければならない気分になり、今日の始まりの気分へと、また、のろのろと進んでいくのだ。