クール、あとギャング

読みたい見たいものはたまっているけれど、とにかく消費したくて、読むヴァルター・ベンヤミン『陶酔論』。本当は、結構前から著作集を読み返さなくっちゃと思っているんだけど、果たせていない。たしか、最初に読んだのは6年以上前か。今読み返すと面白いと思う、けど面白いの他にもあるよ。

 この本は麻薬についての手記、エッセイ、記録をまとめたもので、その多くは未発表のものを無理やり編纂したものだそうで、まあ、楽しいオサレ・エッセイとして気軽に味わうのが一番だと思う。同じ系統でいうと、やっぱりボードレールの『人工楽園』を想起せざるを得ない。内容はともかく、題名かっこいいね! さすが詩人! でも、麻薬っていっても、やなしたきーちろーさんが映画版トレイン・スポッティングのレヴューで「ドラッグに手を出すのは、退屈さと折り合いが出来ない子供だけだ」とかっこいーことを言っていて、でもそんなきーちろーさんが自分の事を特殊翻訳家とか自称しているのは、謎だ、ダンディズムすか? そういうの嫌いそうだと思ってるんだけど。

 てか、薬物に関して一番面白かった本は、青山正明の『危ない薬』だ。こういう本にありがちな、極私的な文章(しかも中学生作文レベルの)垂れ流しでもデータをただ並べてみただけでもなく、体験と考察とが巧くミックスされた好著だった。残念なことにジャンキーの著者は、「きちんとした薬物の本」を書けたのに、おそらく薬物のせいで(が引き起こした問題に因って精神をすり減らし)首つり自殺をしてしまった。残念だ。俺は薬物をつかっていない。だってこれ以上色々と悪化するのがこわ……じゃなくて、俺も、きーちろーさんみたいに、退屈と折り合いつけられてるし……寝なきゃいけないし、ゲームもしなきゃいけないし……でも、薬物中毒になっていないのに『危ない薬』が好著なんて口走るとは、俺はなんてふまじめなんだ!! ドラッグ駄目! 絶対!! って(故)ジャガーさん(少年ジャンプ)も言ってた!!!

 再読、といえば、また再読してしまった。新しい本を読もうとは思っているんだけれど、でも、再読することもまた考えることなのだから、別に立ち止まっているわけではない石川忠司・神山修一『文学再生計画』。この本は共著となっているが、多くを石川が書いている。だから石川への言葉として言及をしていく。

 この共著相手の神山という人はゲーム、ゲームやアニメのノベライズや脚本を担当しているそうで、この本が発行された2000年当時では、『ノエル』のノベライズ(直接ゲーム制作に携わっているのかは分からないけど)を書いている。

 ノエルというゲームは、ゲームレヴューの本に紹介されていたから知っている。近未来(今から見ると現代? このゲームの発売されたのは十数年前だから)を舞台にした、美少女ゲームだ。内容は主にチャットだか電話だかで女の子と仲良くなる、というシステムらしい。

 で、このシステムがかなりやっかいな、要は出来の悪いゲームだったらしい。多分、それは当時の、PSのマシンのスペックが足りなかったことが原因だと思う。やりたいことと、できることがかみ合わずに、ゲームとしてはかなりストレスがたまる作りになっていたらしく、結構な人がすぐに投げてしまったそうだ。美少女ゲームとして根本的な部分、ギャルとの会話が「普通にはできない」作りだったらしい。こういうゲームを買うユーザーは、当然女の子と話したくて買ったのに、円滑なコミュニケーションが出来ないなら、怒って当然だと思う。

 けれど、一部のプレーヤーはこのゲームを文句を言いながらプレイしていたらしい。例えばこのゲームのレヴューした人(神山ではない)のように。俺が読んだレヴューを書いたライターは文章内で、友人に散々ノエルの文句を言いまくった時に(とてもレスポンスが悪い、かと思えば理不尽な理由で怒る、人間としてありえない)、「でもそれが○○(ゲームの女の子の名前)なんじゃん」と言われて納得したらしい。このエピソードは何だか印象的だ。どうせ攻略ルートが存在している美少女達なのだから、理不尽で不都合な方が、まだ、「コミュニケーション」を楽しめる気がする。

 別の場所で別のライターが、このゲームの2と3が出た時に「普通」に遊べて「こんなのノエルじゃない!」と発言してたのは、俺的にはツボだ。

 プレイする予定の無いゲームの話ばかりしてしまってしかも神山さんについては何も知らないままだけれど、まあ、このまま石川の文章について書いていく。俺が彼の文章を好きなのは、アカデミックではないやさしいインテリって感じがするからだ。この本が発売された十年前のことを石川は日本文学が「黒人化」したと語る。「黒人化」とはくだらないゴタクや魂の叫びを「全く同じテンションで、同じ感情の密度で歌いあげる」ことであり、「連中はいつだってマジであり、そして、いつだってそれを笑い飛ばしている」という態度のことを言っている。彼は肯定的に、自由について、ソウルフルな黒人のように、歌うことのできることについて、捉えている。

 彼の事をやさしいインテリと称したが、それは知識から引きだされるセンスの良さと(その逆の悪しき例が、唾棄すべきアカデミズムだ)、作品、文章への温かい眼差しとを感じるからだ。

 「清水博子は自主的に設置した禁止区域は避けて通り、常識的な禁止区域には神経症的に避けて通り、常識的な禁止区域には平気で踏み込んで自爆する。彼女のその複雑な身振り=文体は傍から見ると何か奇怪なダンスを踊っているようですごくいいよね」

 とか、町田康の言い訳のオンパレードの『人間の屑』を「接続詞小説」と読んだり、保坂の短評を「保坂和志は筋金入りの「幸福」好きだ」で始め「ああ! バイトはもうやめていっそ保坂の小説の中で暮らせたらなあ」で終わらせたり、鈴木正剛の小説を「小説」というよりも「マブダチ」と語ったり、笙野頼子は「魔術的リアリズム」というよりも「幻視的レジスタンス」ではないか、とか、とにかく、その眼差しは温かく、「黒人的」に、「ファンキー」だ。太陽の光とか、アルコールの温かさとか、そういう種類の、楽しい文章だ。

 以前石川が別の著作で哲学書の翻訳について「原著で読まなければならないなんて、そんな翻訳の際に失われる細かい差異でどうにかなるようなものならいらない」というような趣旨の事を語っていて、それは今も俺の関心事の一つとして頭のどこかに居座っている。

 下らないゴシップ、小話として、「ぶんだんのとてもえらいひと」や聡明な批評家が誤訳が多い翻訳を出版してしまった、とかそういうことをいくらかの人は知っていて、直接自分とは関係ない本だし! それに、ちょっと位間違えてもいいじゃん、「そんなので駄目になる本なら最初から駄目な本だよ」とか俺は思う。けれど。

 細かい差異にこだわっている人は、要するにアカデミズムか文壇の中で「研究者」とか「哲学者」とかそういう肩書で席を求めている人が大半を占める、というか俺の印象ではそういう人しかいないように思えていて、専門家という肩書の為に居場所の為に自分の中の「哲学者解釈」の為に重箱の隅のつつきあい、或いは「原著と格闘すればテキストを解読できる、それに価値を見いだせる」とか思っている(俺にとっては)厄介な人とか、あまりいい印象を抱いてはいない。

 けれど、誰かが翻訳しなければならないし、翻訳されれば当然、その再現性が妥当性が問題になる。俺にしても、こういった問題を語るのにはやはり語学を一つくらいマスターして、語るのが望ましいだろう。ところで語学を習得するって何だろう。本質的に、かなり困難で、しかもできたからって、肩書好きな人と旅行とかに便利という側面が強いように思える。それだけではないけことは承知している。でも、この本を「理解」するには、血肉にするには、原著体験以上に様々な、明示出来ないことが必要ではないのか。そりゃあ詩位短いものだったら自分で読んで再現させる、のもいいとは望ましいとは思うけれど。辞書を(頻度は問わない)使用して長々と翻訳するなんて、結局、その精密性にこだわるのって不毛だと思う。てか、そんなに、他の誰かが書いた本に興味があるなんて、俺には信じられない。それが生活に直結しているけれどその点を(公言する必要はないが)認めようしない(であろう)人に。

 ドラッグはしなくても書ける。というか、やんなくてもクールに書けたらオッケー。殺人犯じゃなきゃ推理小説とかハードボイルド小説とか書けないの? 問題なのはクールかどうか。これが評論や哲学になると、「クール」に振舞うには、やはり、取り組もうとする諸問題対する知識が土台になるだろう。万全を期するためには、原著で読むというこういは、誠実なものだ、けれど俺は哲学者とか批評家になりたくなんてない、よかった! 糞真面目にならなくてもいいんだ! がいこくご勉強しなくてよかった! そのおかげで、

「Oh,Kiss me beneath the milky twilight
lead me out on the moonlight floor
lift your open hand」

ってポップミュージックを口ずさむことが出来る。いくら外国語わかんね、っていっても、さすがにこのくらいは分かる、けれど身体化されていないから、無責任に、そのメロディーだけを頼りに、楽しみにして。

 楽しむ。ということ、俺は石川の姿勢が好きだけれど、彼が、彼のような人があまり表に出てきていない(多分)ことは少しさびしい。皆は読みたくないのかな、とか思ってしまう。読み返すのもいいけれど、一、二年に一度は新作を読みたい。