「ふゎんふゎんふゎーーん」

あまり、「新しい」、俺にとって新しい本を読まないようにしているというか読んでいないと言うか、そもそもここ数日、まともな読書をしていない、しないようにしている、どっちだ? 分かるか、分かって、どうする。


 少し新しい小説を書き始める。一応いつも、色々な着想はあるけれど、それを形にしようとすると、困難なことになる、当たり前だけど。イメージの中で遊ぶのはとても楽しい。俺は終着点を決めないと書きすすめられない(こういう日記は勿論違うけど)ので、おぼろげであっても、それが見つからないとイメージの中で「ふゎんふゎんふゎーーん」(しょぼいSEみたいな)としているような状態で、まっこと、気分が悪いことこの上なく、しかも本を読まないようにしているのだから、まっこと、「ふゎんふゎんふゎーーん」

 何度も繰り返して思っているのが、小説を書きながら、刺激的なテキストに触れることは中々困難である、ということで、そのテキストが慣れ親しんだ作家、思想家、哲学者、批評家であるならば未だ救いはあるのだけれど、新しい、刺激的なテキストに触れると言うこととはつまり、その人について、テキストについて熟考する時間を求められる、考えざるをえないということでもあるから、その分、自分の文章を作り出そうという気が奪われてしまう。

 また、刺激的なテキストは他のテキスト「をも見よ」と告げるのだから厄介だ。単独で存在するテキストなど存在しないのだから、こんなことを一々書くのも馬鹿らしいのだけれど、これは俺にとっては大きな問題なのだ。刺激的なテキストへの追走がもたらすのは、つまり、恒常性と言うことだ優等生的だということだ。努力・友情・勝利、は漫画の中だけで十分だ。漫画だから、美しいのに。現実的に流用すれば、それは勤労・愛情・帰属とかに似たような、「生き生きとした」ものになる。それらが素晴らしいものであっても、俺が欲しいものではない俺が完全に逃れられるものではない、のだけれど、俺は活動における優等生にはなれないし、なりたくはない。

 恒常性、肯定は厄介な問題だ。なんにせよ俺は選んでいるのだ。それを、悲しいと感じている。何だか、すごく馬鹿らしいことのようかもしれない(その馬鹿らしさを理解していないのだけれど)が、本心だ。

 今書いている小説は、以前少しふれたが、「血」について、つまり、労働と滑稽を考えていこう、としているうちに、「血」を信ずる登場人物に語らせている「言葉」が酷く滑稽で、例えば、

「労働者に身を窶して、兄様は気が違ったんだわ」とか「神仏に頼るような、ましては芸術なんかを信ずるような、そんな惰弱な血を分けたつもりはありません」とか、そういった趣旨の言葉を書いていて、

 自分で書きながらこいつは阿呆じゃないか、と思いつつも「これは誰の言葉だ」と、奇妙な気分になった。ちっとも、この間抜けな「台詞」は、おかしくなんてない。馬鹿らしくともおかしくない。言葉。自分が言葉を貧しくするレッスンを送っていたのだと、改めて思い知らされる。自己検閲を行っているはずで、実の所、俺は言葉を貧しくしている環境に過剰に慣れ親しんでいたのだ。

 「労働者に身を窶して、兄様は気が違ったんだわ」が、俺にとっては笑いごとではないのだ。恒常性を根底に置いた行動が俺を貧しくする。その程度で貧しくなる意志なのだ、とも思うけれど、それが事実なので、仕方がない。しばし、逃れるような振る舞いをしなければならないだけの話だ。

 とはいっても、久しぶりに募集ページをネットで見てしまい、とても自分には務まりそうになく、疲労と共に途方にくれる、ということをこれまで何度も繰り返しているのだが、何だか、それに対する期待とというものが薄れていっているのを感じる。多少、自分の中で覚悟が、諦めのようなものが出来てきた、と言うようなことを何度か書いてきたが、それはきっと、俺が自分で、ようやく言葉を選ぼうとしているのだと、
自覚してきたからかもしれない。

 サルトルが自伝的小説『言葉』の中で、「凡人の抒情詩たる戦争からは逃避した(興味が持てなかった)」といった趣旨の事を語っていたことを想起し、俺は、彼のように、自らの言葉を、大事にしていたのか、と省みると、それはやはり、自己検閲の上の、貧相な言葉ではなかったと、思わざるを得ず、ただ、それを気付けただけでも、労働から、しばしであっても、離れて良かったのだと、確信できて良かった。

 言葉で語ること。優等生的な、清潔な、構築的なアプローチは、堅牢な物を作ろうとするならば必ず求められるものだと、俺は思っている。雰囲気でどうにかなるなんて、自己肯定がとても強い人間のすることで、俺には関係のない話だ澱の美しさには気付くかもしれないが檻の美しさに震えることの決してない人間のすることだ俺には、関係ない。

 俺は、聡明な、優等生的な人間をこれまで何度も描いてきたけれど、所詮俺は二十代の若造で、聡明なんて言葉とは程遠いのだ。誰であれ、たかだか二十数年生きた人間に聡明なんて言葉を冠するなど、正気だと思えない。でも、俺は三十四十、真面目に生きるなんて、吐き気がする(でもそうなるはずだ)。聡明さのフェイクとして恥じないような、清潔な生活が理想的ではあるが、単にそれは理想でしかない。聡明は清潔だ。高潔ではなくても、清潔だ。清潔さを否定する減点する要素は、とても難しい。ドレスシャツがあまりにも似合いすぎる男や、ワンピースあまりにもが似合いすぎる女のようなもので、好み以外に、積極的に減点が出来るだろうか? 言葉においても清潔さは有用だ。恒常性を共にしながらも、機械の美をたたえている彼ら。

 と親密になるのは、やはり難しいことだとは思う。なんちゃって仲良しで、これまでのように過ごすのも、俺の「生活」の為には必要ではあるが、今は、自分で言葉を確認していかなければならない。俺の実感よりももっと恐ろしいはずなんだ言葉はだから自由に自由の意味を解さずに自由に。