XX歳からのアウトサイダー

仕事先を探せばげんなり。また、吐き気への緩やかな坂道を登らなければならないのかと。どうせしばらくして駄目になるのに。何度同じことを繰り返すんだろう、と。シーシュポス、というよりももっとお寒い、現実的な問題だ。「生活は召使に任せておけ」、なんて、俺には相応しくない言葉だ。生活も、それなりに楽しんでいますよ俺、うんざりする。俺は帰属も貴族にも縁が薄い(無い)。

 ジュネの『恋する虜』の残りの部分を読み終える。呼んでいる最中に、そういえばセリーヌの全集と金子光晴の著作も読み返さなければと思い、何だかそのセレクトに我ながらどうしようもねえなあ、と思う。全部闘争/逃走の本ばっかじゃねえか!! ファッキン生活!! ファッキン!! しかし、「ファッキン」だけでは暮らせないマジファック。陳腐になってしまうファッキンという叫びなんて、ファッキンだろ? お遊びでしかないだろ?

 そんな俺の為に、30歳からのアウトサイダーとか言う本があればいいのにと思う。何年か前に「十何歳からのへいろーわーく」ってのが売れ売れだったと思うんだけれど、それの実用的版だ。何が実用的なんだ。でも、出ればそこそこ売れると思うよ。必要な人がけっこういるはずだよ、で、アウトサイダーって、何?本に書いていることを実践すれば暮らすことができるのか、な、わけないからこんな文章を書いて「彼ら」の本を読むのだ。

 やっと600ページのジュネの本を読み終えたのに、読み終えれば全集が読みたくなって、全四巻の全集も借りてしまった。読んでいない本が溜まっているのに、ますます、色んなものから離れていくじゃないかでも、それは仕方がない。何をしたって、片手落ちなんだから。

 新潮社から出版されているジュネの全集は武骨な、飾り気のない黒表紙に金字で題名が印刷されている、ジュネによく似合いの装丁だと思う。でも、国書刊行会から出版されているセリーヌの全集は、割と大きさもあり、黒表紙の表面がフランス語で埋め尽くされていて、それが逆エンボス加工(でいいのか分からないが、要するに文字がへこんでいる処理がされている)で、マジかっこいいのだ。黒魔法使えそうな、セリーヌの全集にぴったりすぎる装丁だ。でも、全集は冴えない、そっけない位で丁度いいのかもしれない。だってそれを読む人は、相当好きなはずだから。無愛想大歓迎だ。

 結局、言いたいことは、思っていることの根幹はさほどぶれがないものだ。同じことを繰り返し語っているというよりも、近しい問題について、考えていくという感じが近い。その方法が、ある人は生活であったり、またある人は作品であったりするのだ。とにかく、書かねばならない。書いてまとめなければ幾分頼りない志向性を与えなければ、死ぬことも生きることもできないしかし、憎らしいことに恒常性は働いてくれている。アウトサイダーにだって、恒常性は働いている。むしろ、アウトサイダーなのだから旺盛な恒常性、健康さがなければならない。あってこそ、アウトサイドで生き延びることができるのではないだろうか? 

 そう考えると、俺はアウトサイダーには相応しくないのだと思う。Rou Leedの「walk on the wild side」でも聞いて、サビを口づさんでいる位で十分だ。俺はアウトサイドでは生き残れない。生き残る意思が薄弱だ。でも、「walk on the wild side」と、優しいルーの声ではっぱをかけられると、それもまたいいのかな、と言う気分にもなる。薄弱であることを、哀しまなくて済むような、そんな気がしてくる。

 知らぬ間に、outになっている。多分、俺はなっている最中なのだろうが、それは結局の所全員がそうだ。つまるところ金銭的に、という問題は大きいにしても、それでも、ある時、大抵の事はどうでもいいのだと、了解できるのだ。本当に恒常性を愛しているのか? 俺の回答は否だ。


「思い出というものは「幾つものイマージュ」を通じてやってくる。そしてこの本を書いている男は、はるか彼方、老いてゆくばかりなのでいよいよ認めがたくなる小人の、とても小さな身の丈の中に自分自身のイマージュを見ている。この一文は嘆きではなく、老年という観念を、そして老年においてとる形式を、つまり私の眼に映る私の寸法が縮小していく様を言い表そうとしたのである。私は見る、全速力地平線がやってくるのを、その線の向こうに、その線と溶け合って、やがて私は消滅するだろう。二度と戻ってこないだろう」


 遺作の『恋の虜』のなかの幾分感傷的な一節だが、今の俺には涼しげな風のように、肌を撫でてくれる。とにかく、文章を、「日記」でもいいけれど、それよりも多少は美しい志向性の文章を書きたくなってくる。色々と、どうでもいいのだと教えてくれる。