もはや、そうあるいはもう、もはや。

ジュネの全集を手に取り、これを片づけるのは時間が必要だなあと思うが、この中の全部を通読するわけでもないし、とも思う。というか、文庫化されているのはもう手元にあるので借りる必要もなかったかな、と気付いたが、本の山と言うか本の廃墟、ごみためと化した一角をあさることを考えると借りて良かったと思う。

 久しぶりにジュネの『泥棒日記』を読み、その饒舌ぶりに、無防備さに、恣意とリリスムとの希有な混淆に、改めて感銘を受けた。きっと、これは自分には足りないものだ、そして必要な物なのだと、今必要なのだと、そう思った。俺は蛮勇を身をもって受ける、受けねばならないと感じているのだけれど、蛮勇よりも覚悟がいることが、告白なのかもしれない。

 告白と言っても、そこに大したものなんてない。それは俺に限らない。全ての告白は口にした瞬間に陳腐になりうる。だから、生活が回っているのだ。悲しみを留めておきたいのは誰だ。

 告白。困難で、また、なんとも居心地の悪いものだ、困難なことだ。もはや誰が告白をジャコメッティの彫刻のようにフレイヴィンの蛍光灯のようにニューマンの絵画のようにできるというのだ。この設問が誤っていることは自覚している。その必要がない。けれど、俺はそれに憧れる。堅牢な志向性へ、良い旅を、と手を振ることが最良のマナーであるのだと、マナーで、生きていくのだと、そう信じていた。

 しかし自体はそんなに甘いものではなく、俺も同じ甘さにいつまでもとどまるわけにもいかない。別の甘さを、そして甘さ以外の何かを求めて。



「この書物『泥棒日記』は、すなわち、「到達不可能な無価値」の追求である」


「この私の心のなかの生活、あるいはそれが示唆するもの、についての記録は、ただ、愛の歌とのみになるだろう。厳密に言って、これまでの私の生涯は性愛の冒険(その戯れではない)の準備であったのだ。そして今私はその意味を発見したいと念願しているのである。如何せん、私には英雄的行為こそが愛の美徳を最も多く具えたものと思われるのであり、そして英雄なる物は我々の精神の中にしか存在しないのであるから、我々は英雄を想像しなければならない。私はその為に言葉の助けを借りる」

「私は昔の悲惨な生活の仲間たち、不幸の子らでありたいと思う。私は彼らが分泌する栄光を羨ましく思う。私はこの彼らが分泌する栄光をより純粋でない目的のために用いている。才能とは、素材に対する礼譲にほかならず、それは声なきものに歌を与えることなのである。私の才能は、刑務所や徒刑場の世界を構成するものに対して私が寄せる愛以外のものではないだろう」

「聖性が私の目標ではあるが、私にはそれがいかなるものであるかを言い現すことができない。私の出発点は、この、倫理的完全に最も近い状態を指す、聖性という言葉それ自身なのである、それについては、私は、ただそれが得られなければ私の生涯が虚しいだろうという以外、何も知らないのである」


 自分がジュネのように自由であったか、自由に向き合っていたのか、と思い返すと、思い返している時点で答えは否だ。ジュネのようにある必要はない、けれど、ジュネのようでも、ありたいと、その告白を宣言を忘れてはいけないと思う。『聖ジュネ』という本が書かれてしまうこと、いや、余りにも喋り過ぎていることは、瑕疵とは言えないのだ。頌歌、魂の消化を、ソウル・ミュージックのように口にすることを、それが歌唱力が無い俺であっても、恐れてはいけないのだ。Cheryl Lynn Ella Fitzgerald Laura Nyro、素晴らしいジャズ・ソウルシンガーの彼女達を他人だと、決めつけてはいけないのだ。何もかもが隔たっているにせよ、告白が、吐露が、汚泥と言う名の体臭のする蛮勇を、恐れてはならないのだ。


 数ヶ月前にノリで、初めて自分で書いたライトノベルを読み直し、似たような問題を想起した。ライトノベル、ティーンネイジャーやそれに属する人に消費されやすい形態の文章、つまり、作者からの贈り物であるそれについて、文章を「贈る」気の無い文章ばかり書いてきた俺にとって、それはとても刺激的で楽しい作業であったのだが、どこかで、それを「ライト」と言う名のエクスキューズ付きで書いた為、どこか、告白が、もっと言うならば、「ソウル」が無かった。別に自分でいうのも馬鹿らしいが、自分で好きなゲームの同人誌的なノリで書いたので、つまらなくはなかった(趣味の楽しみだから)。けれど、恥ずかしさがなかった。恥辱から回避されていた。そういう文章を書いているから。予防線が最終退避先が存在していた。でも、全力で告白してきた人間の顔が好みじゃないから、とか、消極的な理由で袖にするのが、消費者のあるべき姿ではないのか? それも、楽しみなんじゃないのか?

 ライトノベル、に類するような書物の、機知ではなく既知との冒険とは、漆黒の翼であり紅蓮の炎であり透き通るような肌であり彫刻のような美しさでありそして、美男美女である、関係性社会性の獲得である(読者には感情移入と読み飛ばしが許されている!)。獲得だ。驚きはあっても脅かすものはない。求められていない。これは友達とのおしゃべりであるのだ。卑下しているのではない。友達とのおしゃべりは下らないものだと俺は思っていない。その相手が、可愛い子か、皮肉屋か、という違いはあるだろうが、おしゃべりであるから、ライトで、有益なのだ。おしゃべりではないというのなら、闘争だと逃走だと言うのなら、それは、幸福なことだ。当然のことではあるが俺の区分けなんて俺の為にあるだけだ。俺が呼ぶライト、の中に、恐ろしさ、驚きではなく恐ろしいものを見つけられるのならば、何らかの対象から汚辱をとりだすことが出来たならば、幸福なことだ。

 蛮勇だけでは足りない、ということを身をもって感じ取り、とりあえずその「自作の楽しいライトノベル」を加筆することにした。感情移入を説明を、物語をキャラクターを「大いに喋らせること」。それは慎みではない。けれども、それが必要なのだ。形式に限らず、必要かもしれないものだ、選択肢として残しておくべき代物なのだ。恥辱を顕わにするにしても、そんなもの、結局は俺個人の根深い不快感でしかないのだ。誰もかれもが忘れるものだ記憶しないものだ。また新しい別の覚悟が、俺には必要なのだ。

 もはや毎日が楽しいです毎日、仕事を探しています。