ハー(ド)トゥーセイ

月末の支払いやら何やらで、色々と今後の事に向き合わねばならなくなる。って、別に今に限ったことでもないけれど。

 今月こそ働こうと思っていたのだけれど、働けませんでした。色んな意味で。でも、いざ求人広告の自己啓発セミナーみたいな文面やら態度やらを目にすると身体が拒否反応を起こす。面接の約束も、会社のホームページを目にすると、幾つか反故にしてしまった。理屈じゃなくて、吐き気がする。いつまでそんなん言ってられるんだろ、と思うし、金だってヤバくなってきているんだけれど、でも、そういう人生。冒険出来ない冒険者系で俺。

 ミヒャエル・ハネケの『タイム・オブ・ザ・ウルフ』を見た。大した説明は語られず、危機的状況に陥ったヨーロッパでの、家族の人々の話。

 父、母、息子、娘の四人家族が別荘に行くと、そこには泥棒がいた。泥棒というか、危機的状況で、泥棒をせざるを得ない人達。その中の一人に、猟銃で父が殺される。そして、三人になった家族で来るかも動くかも分からない列車を、多くの人と待つことになる。

 彼の『ピアニスト』という映画が俺はとても好きで、その内容はヒステリックで監視癖のある母親に育てられて、母親と一心同体になってしまったピアノしかできない中年女性が明るくハンサムな男と恋に落ちる、と書くと何だか素敵な感じの映画の説明になるけれど、実際は主人公の女性はかなり歪んだ(とあえて表記する)性癖を持っていて、誰とも満足なコミュニケーションをとれない。誰とも。でも、その歪んだ主人公だけではなく、男だって、歪んだコミュニケーションで、主人公の女性を受け入れようと、罰っしようとする。色々な人が泣く、泣かされる。

 色々と(人によっては)同情の余地が見えるような、痛々しい主人公だけれど、彼女もまた、弁護出来ないような卑劣な行為に手を染める。ピアニストになろうとしている、女の子の指を傷つけるのだ。他にも、彼女を見て嫌悪感を抱く人は多いだろう。主人公はとても痛々しい。あまりにも、人間的だ。そして、その人間的な生きざまが、劇中に流れるクラシックの名曲たちが、ラストシーンの静けさを美しさを引き立たせる。

 この『タイム・オブ・ザ・ウルフ』もラストシーンがとても美しい映画だった。ネタばれになるので雰囲気しか書かない、いや、書けないのだけれど、炎やら雨やらの演出も「自然」で、さることながら、人々の生き生きとした、交錯する演技は見ものだった。

 ラストシーンや、映画のそこかしこで、アラン・レネアウシュビッツを題材に撮った『夜と霧』を想起した。あの映画を撮るレネのような美しさを真摯さをたたえていた。多くの人がそこには映しだされている。そこで、自分は何を出来るかではなく、何をしたいか。彼らの映画は、作り物ではなく見た者に問いかける(勿論作り物の映画も大好き俺)。

 多分この映画の方が『ピアニスト』よりも見やすいと思う。色んな人にお勧め出来る(かもしれない)上に結構趣味に近い映画を見つけられて嬉しい。でも、この映画を観終わって少し、ぼおっとしてしまった。映画は綺麗に終わっても、俺は綺麗には終われない。悪趣味な、俺が好きな、どうでもいいシーンの中で何百時間も生きなければならないんだとしたら? ていうか、してきたんだろ? そういうの? もううんざりだって思いつつもしてきたんだろそういうの?

 それに加えて何もできない時間が続くと、目的やら欲望やらが消えて、欲求だけが表出している気がしてきて、こりゃあ駄目だなあ、と他人事のように感じる、けれどそれは俺の人生で、それに、何もできないって、そんなんでもない。やりたいことも、してることもある。

 でも、自己啓発的な、「積極的に」生きようとすることとはどうしても折り合いが悪く、だって、俺人間だもん。そういうもんでしょ? それを忘れてはいけないって、やっと、そう思えてきたような気がする。大多数の人とは違って、大多数の人に自分自身に、吐き気をもよおさせたりしたとしても。

 その為の空元気を。ゲームでも面倒なゲームでも。何にもしたくない時もあるけれどでも、やっぱりそれじゃあ時間がもったいない。いつまでかは分からないけれど、期限付きなんだって、分かってきたんだから、生活の為に、働いてはいけないそして、金の為にどうにかしなければいけない。

 そんないつもの事よりもやっぱり空元気の為に、別の映画を見よう。