ラスト炊飯器

金は無いし胃の調子が悪いのでこりゃ自炊だな、と思っている矢先に炊飯器が壊れた。八年近く使っていたのだから仕方がないと思った。

 痛いけれどもこういう出費は仕方がないと、しかしいややはり、安物の炊飯器を注文したら、お釜が普通のやつではなく、アルミか何かだった。しかも炊いている最中に周りに蒸気がまき散らされるわ必ず底にご飯が大量にこびりつくわ、安物買いの銭失いで、返品なんて出来るわけもなく、これじゃあ料理をする気が萎えて仕方がない。

 また何年も使っていかなければいけないのだから新しい炊飯器を買うことを考える。何年も? でも、これから先何十回何百回もこの炊飯器を使うのは嫌だ。

「どうも男には心の片隅に漂泊願望、のたれ死に願望があるのではないか。概して男女の性差には懐疑的な私がそう言うのは、駅前広場や公園に住むホームレスたちを見ての感想である。女のホームレスというのは極端に少ないではないか。明らかにホームレスには男女差がある。ホームレスのほとんどはやむなくそうしているのだけれど、こうも男女差があるということは、どうも男を惹きよせる何かが漂泊の生活にはあるように思える。

 吾妻ひでお失踪日記』を読んで、そんなことを考えた」 

 呉智英のこの文章は大体俺の意見と同じで、(多くの)男はきらきらテクノの主役になったり、ビューラーマスカラアイラインで目の周りを真っ黒にするわけにもいかないのだから、別の方法で生活を楽しまなければならない。
 
 先日見た『ぼくを葬る』もそうだが、男が死ぬふらふらする映画というのは男がプロデュースした「女の子きらきらテクノ」と同程度のきらきらした気分をくれる。ロメールの『獅子座』やルイ・マルの『鬼火』とか。ダンディズムというよりも、単にそういうのが楽しい、楽しめるんだと思う。いいことだ、いいことか?

 ずっと気にはなっていたが絶対に退屈するだろうなあ、と思いながらガス・ヴァン・サントの『ラストデイズ』を見た。正直に言ってこの監督はあまり好きではないけれど、カート(をモチーフにした)の最後の二日を描いているって言われたら、ファンとしては見たくもないけれど気にはなってしまう。こういうものはファンは心から楽しめないようになっている。でも、カートみたいな人が見られるんだったら、それだけで多少は楽しめてしまうはずだ。

 あまり期待しないで見たおかげで、そこそこ楽しめた。カート役の役名ブレイク君はカートっぽい顔つきで好演していたと思う。長い金髪で顔が隠れていた(はっきりとは顔を撮らないようにしていた)のもよかった。Velvet UndergroundのVenus In Fursも流れたしね!

 でも、思っていた通り、俺はこの監督の撮り方が苦手だ、というか、妙なちぐはぐとした感じを受けるのだ。変なライティングやら技術に溺れず、美しい構図で画面を魅せるのはいいと思うのだけれど、風景をただ映しだしたり、ブレイク君に長々と演奏させるのはどうだろう。演奏なんてしなくていいのにと強く思った。てか、この映画こそ、音楽なんていらないんじゃないの? せめてラストだけにしてくれたらまだよかったのに。

 何でロックスターがギターをひかなきゃいけないんだ? ギターを「鳴らす」方が良かったんじゃないだろうか? 

 問題にしているのは彼のリリスム、感情移入についての扱い方で、『エレファント』でも見られたガス・ヴァン・サントの撮り方は、俺には安っぽさというか、ただ退屈に映ってしまう。それを画面の、構図の美しさが救っている場面もあるだろうが、過度な、打ち捨てられる少年(男)と、断絶したショットとの組み合わせは、悪い、とは言い切れないのだけれども、何だか甘いように感じられてしまう。苦手な体臭のする知人と同席しているような、微妙な、誰かに口に出すことが多少ははばかられるような、不快感が立ち上ってくるのだ。

 かっこつけにも転ばず(しかしかっこをつけるのは、かっこが「つく」のは大変なことだ)、かといってリリスムの余韻を十分に残すと言った姿勢はどうも(俺には)居心地が悪い。詩情は内包するだけでも十分ではないだろうか。

 とか思いながらも、彼の撮る画面は綺麗だ。彼の写真集は見たことが無いが、見てみたいと思う。彼の映画も、少しは見ていきたいと思う。見たい映画で簡単に見られるものは少ないから、

 と思い、ふと、今一番見たくなった映画ジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』をネットで検索すると、一万の値がついていて、とはいっても前からそんな値段なのは知っていたけれど、炊飯器を二個買う金で『ママと娼婦』が買えるのだと思うと何だか馬鹿げた気分になってくる。

 ママ、娼婦、炊飯器

 それより映画じゃないラストデイスいやそんなんじゃなくてやっぱり炊飯器。ご飯食べて、そんなんじゃないのの準備をするんだ。