クソッタレ友情きみに

銀歯が取れた。ってことは治療しなければならない。すこしぼんやりとする。映画見る。


 フィリップ・ガレルの『愛の記憶』を見る。多分、俺はガレルの映画に向いていないのだと思う。美しい画面。倦怠と齟齬と愛おしさ。俺が好きな陰気な映画と大差ないようで、違う。俺は先入観抜きで彼の映画を「愛の映画」なのだと、そう確信しているらしいのだ。

 確かに彼の映画には対話がある。人々の対話。そして前述した、俺の好きな映画の美しい美しいあまりにもあまりにも映画的な要素もある。でも、そこにあるのは肌と肌との触れ合い、口づけがあるのだ。性交や口づけを映した映画なんて山ほどある。しかし、ガレルの映画は恐ろしい。恐ろしい肌、と肌。恐ろしい肌と肌を映しだす映画。当分見たくない。でも、俺はまた彼の映画を見てしまうのだ。

 口直しに、気楽に見ようとエルンスト・ルビッチの『ラヴ・パレード』を見る。洒落たラヴ・コメディ。なのに、どうしても画面に集中できない。というか、彼の映画の中ではあまり出来がいい方ではないのだと思うがそんなことが関係なく画面に集中できず、どうにか見終わり内容はさっぱり頭に残らず、わーい、な状態になり、NIRVANA のLithiumをエンドレスリピートして、
「アイムソーハッピー コズトゥディ アイ ファイマイフレンズ インマイ ヘッズ」

 って繰り返して、はしたないことをして寝る。眠れたなら起きられたなら
きっと俺もいくらかマシになってる、って、皆も繰り返してるっしょ?


 デレク・ジャーマンの『ジュビリー』を見る。

1578年、エリザベス女王(1世)は、大魔術師ジョン・ディーにより呼び出された天使エアリエルに、未来の英国を案内される。そこは金と暴力とSEX等で堕落しきった無法状態の世界。女王はさまざまな現実を見せられ、嘆く


 そうですが、要するにいつものデレクの映像美乱痴気騒ぎ映画で、今の俺にはすごくぴったりだった。

 その中で、物語にはほとんど関係ないけど、ロッカーの男二人で外から大きな団地(マンション?)を眺めるシーンがある。その内の一人が言う。

「高層アパート暮らし」
「四歳まで外にも出して貰えず遊び相手はテレビだけだった」
「初めて花を見て驚いた」
タンポポが怖くて――」
「発作を起こした」
「あの中にあるのは全て規格品」
「社会事業家の考えた最低限の生活空間」
(中略)
「あの頃の俺は死人」
「愛も憎しみも知らなかった」
「俺の世代は空白の世代」

 最後の台詞を聞き終わる途中で、もう一人のロッカーが笑う。それをみて、独白をしていたロッカーも苦笑し、次のシーンに移る。それっきり、この二人は(メインでは)登場しない(と思う)。


 このシーンが俺はとても好きで、これだけの為にでも、この映画を見る価値はあると思った。エリザベス一世の時代でも荒廃した英国でも今の英国でも今の日本でも、揃いも揃ってクソッタレだ。だから、楽しいんだろ? 涙が出るんだろ?

 それで、そんな感傷にはクソッタレな微笑を笑みを、返すべきだろ?



デイヴィッド ・ヴォイナロヴィッチ『ガソリンの臭いのする記憶』やらエルヴェ・ギベールの諸作品やら、「文学」としてはそこまで評価できない作品達の中には、そういう空気がある。クソッタレな微笑を。それくらいなら、俺にだって出来る。クソキモイ、80’エレポップ、俺の大好きなHUMAN LEAGUEの曲と同じ、Kiss the future。君らにキスを。ただし、キモイ、エレポップのをね!

 嘲笑でも喜びでもなく微笑を、俺にそして君に。