蛮勇からはるかに遠く

入ってくるはずの入金がなく、つい出来心で年末ジャンボ宝くじを買ってしまった。多分、年明けには俺、億万長者になってるらしいたぶん確実にしたら、色んな人にやさしくできると思う。ニンテンドーDSとかPSPとか。

 特にDSは俺がAボタンを痙攣的に連打する癖があるので、中のバネが馬鹿になってしまったので買い替えたい。買いかえる金があるわけでもないけれど。

 オンラインレンタルの映画を返却して、新しい物が送られて来るのを待ちながら近所のレンタルショップで借りたゲームセンターCXをエンドレスリピートしていたらさすがに気分が悪くなり、これじゃあいかんとdaishi danceQ;indiviとかの爽やかハウスをかけっぱにしていたら、次第に背中の上に砂粒がとめどなく流れてくるような感覚に襲われてきてそれが咥内にまで及び音楽を止める。だからといって激しいのとか陰気なのとかを聞きたいわけじゃないんだ。俺が欲しい音楽は?

 思いつかないなら寝るしかない。寝ているうちに、どうにかなってしまうことも、たまにはあるから。


 西村賢太の『一私小説書きの弁』という随筆集を読む。彼の読者ならご存知、破滅的な生き方を送り、最後は公園で野垂れ死にした藤澤芿造に関する随筆が主にまとめられた一冊だ。

著者の西村は中卒で様々な職場を転々としながら悪罵やら暴行やらを繰り返してきた作家で、今となっては数少ないスキャンダラスな「私小説作家」として活動しており、また、読者からもそれを期待されているふしもあるけれど、やはり、彼の作家としての魅力とはその愚直さにあると見ていいだろう。

 公園で野垂れ死にをした藤澤に強烈なシンパシーを抱き、一番弟子を自称し借金をしながら彼の書物を集め全集を編纂する、のだけれどその過程で人との不和やら恋人の親からの借金をしながらもその親と恋人を罵倒する殴る蹴る、といった普通ではない行動を生々しい筆致で描き出す彼には明らかな「筆力」というものがある。筆力、なんて便利で空疎な言葉を使ったが、西村も本文中で触れていたが、要するに「駄目人間が駄目人間に酷く共感している」という、それだけのことだ。そしてそれが対岸の火事だと思えないような「駄目人間」にとっては、やはり、胸にくるものがあるのだ。


 俺と西村とは様々な点で異なっている。俺は彼のように学歴コンプレックスと満たされない性欲と猜疑と小心の塊ではない。一々記さないが、別の、糞みたいな集積で俺は成っている。

 そして、命がけで、いや、「たまに命がけみたい」な人を見る度に、俺も早く、自分の言葉でしゃべらなければと思う。生きる為に打ち捨てられた様々な、自分にとってのみ愛着を抱いている感傷に名前を、しかるべき場所を与えてやらねば、俺はとてもとてもとても出来の悪い機械になってしまう。そんなのは御免だ。俺、職業冒険者(無職)なんで。冒険者として生きなければならない。

 ふと、蛮勇も絶望も俺からはるかに遠いのだと、そういう言葉が思い浮かぶ。って、定期的に似たような言葉を想起しているんだけれどね。絶望なんて、勝手に落ちている(と錯覚している)ものだ。関係ない、考えたくない、どっかいってくれさようならばいばいグッド・グッド・バイ。

 しかし、蛮勇から遠いのは面映ゆい。あなたのとりこ。シルヴィ・バルタン。あんな甘ったるくて、素敵なシャンソンみたいな、そんな、俺の身体にとどまらずに身体をすり抜けていくような甘いメロディー蛮勇。蛮勇の為に俺は何が出来るだろうか?

 答えがなくても、砂粒が流れだすような実践があるだけだ。ダイシ、インディビ、一人で聞く音楽じゃあないのかな?