つーかさ、お前さ、やっぱさ、好きなんだろ?

映画見る俺。

 ダグラス・サーク愛する時と死する時』ドイツ敗戦が近いロシア戦線から、短い休暇をもらって故郷ベルリンに帰った青年が、幼なじみの女性と再会し、激しい恋に落ちる。

 この映画は戦争をテーマに、その中にメロドラマを組み込み、厳しい評価を下すならば、どこか消化不良感を与えなくもないが(ラストも十分展開的に理解できるがすこーし甘めだと思ったし)、やはり、これもサークの映画、つまり、傑作だと思う。

 特に戦争がテーマなので爆撃やら空襲シーンがちょこちょこあるのだが、サークの光の構図の扱い方が素晴らし過ぎて、見ていてどきどきした。だって、戦場と豪華な/貧相な市民との対比も映して貰えるんだからね!
 
 別にこの作品に限ったことではないのだが、「こう配置してこう動いてもらってこの光でこう撮れば」みたいな、頭の中の美しい映像を具現化しているような、そんな錯覚さえ覚えてしまうのだ。

 阿部和重との対談で高橋源一郎が阿部の作品を、おそらく褒め言葉として興奮気味に「自分が書いたかと思った」といった趣旨の発言をしていて、俺は、はっきり言って、かなり胸糞悪くなった。できんのか? マジでさ、できんのか?「できそうなことが、優秀な君に!」新人褒め殺しと放言の王様になって、割と寡作の貴方が最近書いた『ソウルトレインに乗って』も『「悪」と戦う』も、全くわくわくしない、若さとか鋭さとか荒々しさとか異物とかが欠如した、とにかくベテラン作家の「てわざ」みたいなのを残しておいて、阿部の対談との時期は微妙にずれてはいるが、この人の面の皮の厚さは、すごいと思う。


 でも、『ニッポンの小説―百年の孤独』みたいな本も書ける作家だって、分かっている。真面目な人だ。文学と格闘している人の内の一人だ。彼に対してその位敬意は持っている(ならこんなん書くなよ)てか、そろそろサークの話に戻る、その前に、

 ナンシー関の追悼ムックの中で、町山広美が「ナンシー関は私と同じことを言っている」とか、そういう発言をしている人を目にするたびに不愉快になっていたそうで、その理由は、「あんたらが言語化出来ていないのを、するどいつっこみで上手く形にしたのがすごいんだろ!」といったような風に正当な怒りをぶつけていて、とても共感できた。

 あのくらい俺にだってできる、なら、してみるべきだ。嫌味じゃなくて、そうしないと、どんどん、ウソつきになっちゃうよ、分かるだろ?

 すばらしい、で終わりでいいのだが、サークのこの映画でどうしても書きたいのが、最初はうさんくさい軍人の男をかたくなに拒絶していたヒロインが、心を許してからの美しさだ。勿論、それをカメラで、構図で明るさで(演技で)巧くあらわしている。

 一番好きなシーンは、戦争の真っただ中だけれど、運良くレストランで食事をする予定を立てられた二人、男が女の家に向かうと、窓から身体を大きく乗り出し(前半部では全く考えられないシーン、だって、監視員が彼女の家にもいるんだよ!)、二つの洋服を掲げて見せる。ひとつは地味な自分の服、もう一つは薄桃色のワンピース(ドレス?)、でも母親の遺品(だったか何か? 忘れた)で、そっちはお直しに30分だかかかるけれど、どちらがいい? 

 勿論、その薄桃色のドレス風ワンピースを選択するのだが、粋な台詞や仕草が満載のサークの映画の中でも、このワンピースを着たヒロインの微笑はとても美しいものだった。てか、サークの映画は、いつも美しい。

 フィリップ・ガレル『秘密の子供』を見る。正直、やはりガレルの映画はどこか合わないかもしれない、けれども見たい、と思いながら、「薬物中毒の男と女の恋愛」というストーリーに惹かれて、見ることを決意した。

 恋愛の監督、愛を語ることのできる監督と勝手に決め付けていて、実際それは間違いではないけれど、この映画のような、切れているような離れているようなおぼろで強固で、でも、微笑を忘れないような関係には、とても惹かれた。

 この映画はモノクロなのだが、人ではなくベッドのシーツや壁の白さばかりを強調するような撮り方が、すごく俺の好みでありまた、この映画の主題にも合っていた。勿論、陽光の中、中間の、淡い光の中を歩く二人だって映されている。

 「薬中カップル」がうまくいくわけがない、上手く続くわけがない。でも、「薬中」でなくても、カップル、程強固な契約を結んでいなくったって、そうだろ? 物語はフィルムが切り取られたように終わる。はっとした。俺は、ガレルの事が好きになれた。嬉しかった。

 ガス・ヴァン・サントの『パラノイドパーク』を見る。もう、ガスの映画はいい、と思っていたのだけれど、これもストーリーに惹かれたのだ。


16歳の少年アレックスは始めたばかりのスケボーに夢中。その日も、スケボー少年の聖地・パラノイドパークに向かった。
しかし頭をよぎるのは家族の事や彼女のジェニファーの事ばかり。不良グループに声をかけられたアレックスは、スリルを味わうために貨物列車の飛び乗りに参加する。
その時、ふとした偶然から鉄道警備員を死なせてしまう。おびえ、悩み、不安に駆られながらも、何事もなかったかのように日常生活を送るアレックスだったが・・・。

 と、説明をコピーしたのだが、この映画のアレックスの青臭さがかなり良かった。ガスの映画は、人物を背景を感情移入の為観客への問いかけの為に長く映し過ぎる時が(全部見たことないけど、いっつもあるんだ)必ずあり、それがめちゃくちゃ「ダセー」と思っている俺だが、今回は、多少それが緩和されていた。

 撮影のクレジットに、クリストファー・ドイルの名前があったのだ。というか、dvdをセットする時に、そこに書かれている名前を見て初めて彼が参加していることを知り、また、少しの期待やら疑問が浮かんだ(ドイルがガスの映画に参加しているのはこれだけっぽいけど)。


 でも、ウォン・カーウァイでおなじみの、ドイルのカメラワークは、いつものガスの良くも悪くも「美しい画面」というか、「お行儀のよい画面」の途中でちょこちょこ顔を出し、いい味を出していた。

 大学時代に先輩にウォン・カーウァイの映画について教えてもらい、夢中でかなり見たのだけれど、今となって見れば、カーウァイの映画の多くを、俺はそこまで好きだとは思えなくなっていた(それでも「素晴らしい」と思える映画も勿論あるけど)。

 そんなカーウァイの映画に必須とも言える、ドイルの荒々しく、ギラギラした画面を捉えるカメラ、なんて書けばそれっぽいけれど、実際どこまで監督が口を出しているか、撮影監督が時には助監督が俳優が口を出しているかなんて誰も知らない。でも、「○○の△△が」と書かざるを得ない。こういった問題は映画に限らず、批評家は本当に大変だと思う。だって、相当面の皮が厚いか、クソ真面目過ぎなきゃ、やってられないだろう。いいわけではなく、これは「日記」だから、「感想」だから、まだ、許されると思っている。だって、分からないなら書くなって、誰が言えるんだ? 勿論、批評家にも、それを声高には責められないけど、っていうか、問いかけてるんだ、批評家がこんな日記見ないのは知っているけれど、疑問を吐きだす、だってこれは俺の日記だから。

 また、この映画ではアレックス役の俳優がいい味を出していた。役柄は、ちょっと物事を斜に構えるティンネイジャー、しかしスケボーや「パラノイドパーク」が象徴するような「ワル」には憧れを持っているような、YESとNOがごちゃまぜになっているような、そんな役柄だ。

 そんな感じを、この仏頂面ばかりの俳優は、けだるげに好演している。でも、多分だけど、この俳優は単に演技力が不足していて、それがいい味を出しているんだと思うのだ。

 「演技力不足が魅力的な」俳優と「真面目と言うかもはや野暮、でも美しい画面を作れる」監督と「少しださめだったりしても、メロコアとかに通じる荒々しさを気持ちよさを映し出せる」カメラマン、三人の出会いが生んだ、誰かが欠けたら駄目になっていたであろう、素敵な映画だと思った。「青臭いとかちょこっとかっこつけとか、やっぱ、あこがれとか、でも中途半端」な感じが良く出ている、(俺みたいな人間の)肌に優しい映画だと思う。

 消化し終え、CDと合わせ7枚(これが一番効率がいい枚数なので)ポストに返却、して帰りに(家の)ポストを開ければ、あら! まあ! 新しい7枚のディスクが届いているではないですか!

 脳内で戸川純の「好き好き大好き」のサビが流れ、

「Kiss me 殴るよに唇に血が滲む程
 Hold me あばらが音を立てて折れる程
 好き好き大好き 好き好き大好き
 好き好き大好き 好き好き大好き
 愛しているって言わなきゃ殺す」

 おれも、恋しちゃったんすかねもしかして