中国茶って中国で製造されているの? だって紅茶は違うじゃん

 ダグラス・サークの『天はすべて許し給う 』を見る。夫に先立たれた、二人の子供を持つ上流階級に属する未亡人と、庭師の男との身分違いのラブロマンス、なのだが、映画の公開時期が1955年ということもあり、「身分違い」というキーワードがメロドラマにうまく機能している。

 あ、あと細部に違う記述があるかもしれませんが、大意は伝わると思うので、一々細かくは調べません。っていつものことだけど
 
 大学に通う二人の子供は、息子はやや直情的なアメリカンな感じ(何だそれ)のおぼっちゃま。娘は心理学を学ぶ才女でわざわざ冒頭で、当時は洒落ていたはずの「エディプス・コンプレックス」について語る。

 こういう物語の常として、最初は「思いもしない」「のにもかかわらず」恋に落ちて「しまう」姿を、いつものことながら、サークはうまくとらえている。勿論、サークの映画なのだから、背景もさりげなく「動き」、視線誘導をして画面の広がりを与える事も忘れない。

 また、配役もかなりハマっていて、思いやりがある知的な未亡人役の女性もいいが、野性味あふれる庭師役のロック・ハドソンがかなりのハマリ役だった。身長が193センチもある、アメリカ的マッチョイケメン、が、四、五十代(であろう)の、本来なら手が届かないはずの女性(とその背景、背後)に立ち向かって行くのだ。

 サークの映画はいちいち映像がいいのだが、告白のシーンはかなり良くできていて、雪の降りしきる青い窓辺と、対照的な室内の赤を上手く駆使し、また人物をシルエットで映したりきちんと顔を捉えたり、一々細かく書くのは超面倒というか無理なので、是非確認して欲しい。

 こうして結ばれたはずの二人だが、「身分違い」であるから、社交界だか上流階級だかの馬鹿げた連中は大いに騒ぎ立て、それはやはり、二人の子供にも通じてしまう。

 よりによって庭師の男に母を奪われ「エディプス・コンプレックス」爆発の息子、そして才女のはずの娘も、根も葉もない噂を立てられ、(たしか、それが原因で恋人とも喧嘩してしまい)母に泣きついてしまう。母親が「貴方は人間心理を勉強している」「こんなゴシップを気にしてはいけない」と諭しても、娘は「心理学(に類する言葉を言った)なんて役に立たない」と泣きだしてしまう。

 また、娘は「私達を愛していないの? 私達を犠牲にしてもいいの?」と母に問いかける。息子もそう言った行為をするのだが、娘のこの行為が、後の伏線となっている。母は家族に、そして一部の理解ある友人に分かってもらおうとするが、困難であり、二人は別れを決意する、

 のだが、後半で美しく着飾った娘がそれはもう嬉しそうに、母親に結婚(婚約)の報告をする。「あれ? (自分の一件で)喧嘩していたんじゃないの?  それにまだ早いんじゃ」

 と戸惑いながら告げると、カメラは、発色の良い若々しい赤い洋服を着飾った、若い娘を「美しく」捉え、
「本当に愛し合っていたら決して離れないものよ(的なことを言う)」

 家族の為に、また、自分自身の弱さで、庭師への愛を貫けなかった母は、あまりに残酷な台詞に呆然とし、娘は最初こそそれに気付かなかったが、やがて愚かな行為を謝罪する。

 娘に限らず息子とも、この一家全員はは愛情で結びついており、すれ違っている、からこそ、「メロドラマ」として素晴らしい効果を上げている。
 
 そして迎えるラストシーン、で交わす短い会話の粋なことといったら、呆然として、最後を思わず見直してしまった。とにかく出来の良い「メロドラマ」だった。ない物ねだりをするならば、「恐ろしさ」がないこと位で、でもそんなのは「tortoiseの音楽って踊れないよね」って言うような筋違いな文句だ(これは実際に発言した編集者がいた。軽いおしゃべり、って感じのノリだったけどね)。

 しかもこの映画は89分しかなく、集中力が無い俺に嬉しい、という理由だけではなく、やはり、削れる分はどんどん削るべきだと思うのだ。だってさ、増やす方が楽だろ? 弛緩するだろ? 映画に限らずさ。まあ、こればっかりは一概に言えないけれど。でも、わずか一時間半足らずで完成させてしまっているサークはさすがだ。いっつも褒めてる俺、それでいいそれがいいじゃあないか。

 一方、カレル・ゼマンの『狂気のクロニクル』は、全然狂気がなく、かといって出来の悪いものでもない、「普通」の映画だった。

 この映画の見所はやはり、実写とアニメを組み合わせている所で、アニメといってもジョン・テニエル的なエッチングのような細かく少しカリカチュア風であったり写実的であったりするアニメで、

 例えば戦争のシーンで並んだ兵隊の頭が、アニメ的にパラパラもげる映像
とかは面白いと思ったが、そういった演出は思っていたよりもかなり少なく、また、こういったものは「仕掛け絵本」的な面白さであって、最初こそ面白くとも、やがて飽きてしまう。今のCG技術(ってそういうのにも興味薄いが)に対抗できる程の「狂気」は、この作品にはなかった。

 ていうか、後半はほとんどそういう演出がなく、今更この年で岩波の赤帯(しかも既読)を読まされているような、「つまんなくはない、いや、つまんないかも」といった感想を抱きましたはい。もっと「狂気」があったらよかったのに。 

 アニエス・ヴァルダの『アニエスの浜辺』を見る。この人の名前は、もう、十年前から何度も何度も目にしていたのだが、映画を見たのは初めてだった。だって!(略)

 しかもこの映画は彼女の最新作、80過ぎのおばあちゃんの、自伝的ドキュメンタリー映画、らしく、どんなものだろうと少しどきどきしながら見たのだが、海辺のシーンを、若々しく映し出す彼女はチャーミングだった。

 そう、チャーミングな映画だった。はっきり言ってヌーヴェル・ヴァーグの主要な作品に目を通していても、彼女の作品は「見たいなあ」と思うだけでスルーしていたのだが、その彼女の半生やら映画のシーンやらが、若々しいコラージュとして展開していく様は、やはりこれが初アニエス・ヴァルダということもあり、多少入り込めない部分や、単純に、元気いっぱいおばあちゃんの夢の世界コラージュ、にはシェイプしてしかるべき部分があったようにも感じられた、

 けれど、やはり、「げんきいっぱい」なのはいいことだ。特に彼女は(このドキュメンタリー私小説的映画においては)登場する女性を、海辺を、若々しく映し出していた。他の映画も見たいところだが、あいにく、クレジットカードの期限は切れるし購入まではしないだろうし、また先になるだろう。まあ、見なきゃいけないの、他にもあるからいいけどね!!

 最近ずっと、ほうじ茶を飲んでいる。毎日2,3ℓは飲んでいる。鍋でわかして、俺でもすぐ出来る。仄かな味と、温かい飲み物を摂取できることが、とても心地良い。

 以前少しだけ高い中国茶を御馳走してもらったことがあって、味は忘れてしまったけれど、その心地良さはなんとなく覚えていて、中国茶とかのんびり飲めたらいいな、なんて、柄にもないことをふと思う。でも、案外簡単に出来ることだ。

 アリスのティーパーティ会場は、俺のこのヤバい自宅で十分なので、落ち着いた、とにかく家の外で、アニエス・ヴァルダみたいに(あ、言い過ぎた)、キュートに、楽しみたいと思いつつ布団を頭からかぶり横になる。