ほどけ エーテル

 未だ吹いてたシャボン、てか外に出なきゃいけないんだってことだ。外に出なきゃ、やってられないってことだ。金がかかる遊びが出来ないから、なんだけれど、頻繁にジャングルジムでシャボン玉していると、ちょっと頭が残念な人みたいな気がしてきて(今更かよ)別の遊びを探さなきゃなあてか働け、ファッキン殺すぞ、

 ということで結構前に見た映画の話を。原作のあるバタイユの未完小説、『ジョルジュ・バタイユ ママン』とウエルベックの『素粒子』。

 『ママン』の方は原作が未完であることもあり、結構変更が加えられているのだが、それが良かった。性的に奔放すぎる母親に執着してしまうティンネージャーの少年との家族劇で母は息子に「私はメス犬 尊敬に値する人間じゃない」「本当に私を愛しているなら 私のふしだらさも愛しなさい」と告げる

 二人の関係は淫らで、もはや老いた母親が若い娘で自分の息子を教育する、かと思えば突き放したり、緊張感のある関係が続く。

 ここで注目すべきは、従来のバタイユの小説における神的な娼婦みたいな存在が母には割り当てられていないことだ(老いた母は奔放で男を手玉に取っている描写が多々あるのだが、少しずつその女がただの女でしかない描写もある)。これに対して批判的な感想を(バタイユの原作ではなくただのエロ映画じゃんか的な)漏らしていた人がそこそこいたようなのだが、俺にとっては「神娼婦」みたいなのが笑い話でしかない(でも『眼球譚』は結構好きだ)し、この監督の現代風リメイクは成功していると思う。

 物語の後半で青年が言う「僕は神を愛しているんじゃなくて 神に身をゆだねるのが快感だっただけだ」という台詞は考えさせられた。神を愛することは、きっと、あまりにも困難で、しかし帰依するということは、それが出来るとその道に勧めると思いこめるということだと思う。でも、俺も神を愛することはできないだろうと思う。

 ラストで、母は死んでしまうのだが、その時にタートルズの能天気なソフトロックの曲「Happy togetter」が流れるのは、かなり悪趣味で、結構よかった。母の棺にしがみついて「僕は死にたくない!」と絶叫する青年は痛ましくも、一瞬の輝きを湛えていた。

 映画版の『素粒子』なんだけれど、役者の演技に文句はないのだが、もう、原作のげんなりとしてしまうような部分が根こそぎマイルドになったような、出来の良い凡作でがっかりした。でも原作には忠実で、サイト等でも評価も高かった。は?どこがいいんだよてめえら、と思った。だって、売れ線エンタメみたいなのをちょっとビターだけどこぎれいに撮りましたよーみたいなのって、一番つまんねーだろ。魅力のない優等生風って! 悪い映画ではないけれど、もう二度と見たくない、

 といえば『ジェリービーンズ』

 映画の解説によると、

現代のイスラエルを舞台に、ジェリーフィッシュ(くらげ)のように人生の波に流され漂う女性たちの日常を描いたヒューマンドラマ

 とか読むと結構楽しそうだと思うっしょ? でもね、割とリアリスティックな設定の中に、しゃべらないかわいらしい迷子の子どもが海から出てくるのよ。しかもかんり印象的なカットでね。それでその子をなぜか保護する羽目になるんだけれど、もうね、この子どもが「クソ安っぽい超越的存在」みたいな扱いで、全然「子ども」じゃないの。子どもっぽが皆無な子どもって、ゲロ吐きそうになる。

 もう、本当に俺はこういう安易な設定が大嫌いで、メタファーとか本当にセンスがいい人がしないと、いや、そういう人でも大やけどする。だって、その時点で「萌え漫画的ツンデレ金髪ツインテールミニスカ貧乳殺し屋お嬢様」が出てきてるようなものじゃん、いやね、それが萌え漫画世界ならいいのよ。どんどん変でおかしいキャラがたくさんいるのが魅力だと思うから。でも、普通の世界を描写しているふりして、某ゲロ吐くほど嫌いな小説のほにゃらら男みたいなの出すと、もうその時点で謎なんてないんだよ。萌えキャラに謎なんてあるのかよ。ないだろ。謎ってのは理不尽で不条理な世界でこそ生きるんだろ。ご都合主義の世界で謎ときとか、センスが悪すぎるっていうか、こういうメルヘンポルノは吐き気がする、けれど、それを自己愛の塊だと認識せずに「文芸」として消費している人らに吐き気がする、けれどそんな人はすごく多い、だったらシャボン玉吹くしかないだろ!

 てことで薄汚れた心を三ナノ位浄化するために見るルビッチ『私の殺した男

 第一次世界大戦にかりだされた、音楽家で気弱な主人公が殺してしまった男の手紙から、その恋人と家族に会いに行く話なのだが、このシリアスな話でも、ちょこっとしたコメディ部分を忘れていないのはさすがルビッチ、といったところ。

 本当は懺悔しに向かったはずなのに、失くした息子(恋人)を知る男に会えて、思わぬ歓待を受けてしまって、友人だと嘘をついてしまい、その恋人と、婚約状態にあった家族公認の仲になってしまい、敵国の男が街をふらついていると噂になっても、家族たちは揺るがない、が、男は思いを打ち明けられずに、煩悶する。
 
 個人的に胸に来たシーンは、大人たちが店で酒を飲んでいる時に、件の父が店に来た時に、敵国の男をもてなす父に皆は冷やかな態度をとる。かれらもまた、息子を殺されているのだ。

 しかし父は、その大切な息子たちに武器を与え戦地に送り込んだのは我々ではないか、そのくせ酒なんで飲んで愚痴るなんて醜悪だと告げる。

 こういった考えを誰が持てるだろうか? 少ないからこそ戦争や争いが起こるのだと思うのだが、でも、決して忘れてはいけない。望まぬ「誰か」を武器にするなんて卑劣な真似はしてはいけない。

 物語の後半で、主人公は愛をはぐくんでしまった女に告白をしてしまう。その後の美しくもせつないラストも胸にくる。しかもこれ70分なのね、ちょーっと描写不足の感もあるけれど、この時間で綺麗にまとめているのはさすがとしかいようがない。やっぱり短くまとめられるというのは、集中力がない俺にはありがたいし、それだけ削げ落とす部分を知っているということだと思う。

 70分台映画、といったら実相寺昭雄の『屋根裏の散歩者 〈完全版〉』。面倒なのでコピーすると、

舞台は東京のうらぶれた下宿館。屋根裏を徘徊し、住人たちの淫らな私生活を覗き見していた青年が、次第に恐ろしい犯罪に手を染めていく。R-18作品

 ということで、結構露骨な性的なシーンがあるのだが、それがきちんとねっとりと、いやらしく撮られているのがとても良かった。映画におけるセックスシーンの退屈さには本当にげんなりしてしまう場合が大半で、だって、記号的なセックスを見せられるってのは表現の放棄といっても過言ではないだろう。だったらそんなシーンさっさと飛ばせよと思う。

 でもオーディオコメンタリーによると、腰を動かす回数まで映倫が口を出していたそうで、マジ映倫ファックなわけで、昔山形浩生が言っていたと思うんだけれど、

 規制がむかつくのは芸術性を守れ(ってかこの人作家とかではないもんね)とかそんな問題じゃなくて、こういうエロ見せると大衆がエロの事ばかりになるから抑止力としてしてるんだよね、ってのがむかつくんだよね、ネットで見ようと思えば見れるだろなめんなよボケ

 的な文章に俺も共感する。わざわざR指定にしてるなら余計なことばっか言うなよ。

 で、作品自体も面白かった。乱歩の小説はすごい昔に読んだし、そこまで思い入れもないのだが、多分、乱歩の映画化をこの人に任せたってのは大正解だと思う。気楽にちょっぴり狂ってる感じが味わえるので、ぜひ見てほしい。

 なんていいながら、最近は預金がやばいのでレンタルができない。てか、シャボン玉液を買う金でレンタルすれば? と思うのだが、ここは譲れないのだ、シャボン、沢山浮いているのを見るときに、ふと、エーテルが見えるようなきがする。

 小さい頃の俺は、日差しの中で視線が戸惑うと光の粒が見えるのが不思議な気分になっていた。のちにそれはただの飛蚊症だと気づくのだが、でも、ふとした時に意識が、というか志向性がほどける感じがして、好きだ。何もなくなるような、一瞬だけ、そんな気分になる。きっと明日、か明後日もシャボン玉をしてしまう。それが愚かだと、今は思えない