教皇が消えてタトゥーは?

 草むらの中で虎に会った。このまま死ぬのかなと思った、かわいいなあと思ったそして、これが夢だと気づくと(実際には存在しない)扉を開けて進み、中には虎が数匹俺を見ていて、その内の一人の、美しい、金色の瞳を見つめながら、ああ、このまま夢が覚めなければいいのにと思いながら目が覚めた。

 明晰夢を見ることがまれにあって、しかし俺の場合すぐに覚めてしまったりして、残念だ。経験上、神経の高ぶりが明晰夢を連れて来ることが多く、すこしうんざりしながらもわくわくしているようなつまりいつもの日々。


 ずっと行きたかったフランシス・ベーコンの展示を見に行った。こんなに誰かの作品を待ち望んでいたのはジャコメッティ以来かもしれない、ってことは五年ぶり位だろうか。

 五年、と考えてしまうと何だか気が抜けてしまうのだが、とにかく彼の作品を見れることを幸福に思うべきだ。

 彼の作品は大抵知っているし、関連書籍も当然読んではいるが、素晴らしい作品は、もう当たり前の事だが、実物を見なければならない。別に「アウラ」なんて言いたいのではなくて、印刷をすると、どんなに質が良くても、色や質感が変わってしまうものだから。だから金欠の俺に、図録を買わずに済むいい言い訳も出来る。

 中学校の教科書で最初に知った「教皇の為の習作」は、実物を見ても、やはり一番好きだと感じた。あの空間を意識させながらも溶けるような、それでいて生々しさも感じさせる画は、彼にしか描けないと言っても過言ではないはずだ。

 その他の作品で少し驚いたのが、(おそらく史実に基づいているであろう)以前映画で見た時にはかなり酷い扱いをしていたはずの、後に自殺した恋人を書いた画と、その後に出来た恋人を描いた画が全然違っていたことだ。

 その恋人たちの名前を失念して、調べれば分かるが、まあ、それはいい。ベーコンにとっての幸福な絵画(ファン・ゴッホに対する敬意は、あくまで敬意としてみると)を初めて知って、多少の戸惑いと、温かさとを覚えた。幸福な、分かりやすくかつ素晴らしい絵画だなんて、ベーコンには程遠いものだと思っていたけれど、その結実を目にすると、何だか心が温かくなるような、「教皇」だけではないんだって、そんな当たり前のことを教えてもらった気がした。

 それにしてもアカデミックな教育を受けていないベーコンは、初期の画は荒々しい筆致で、俺の記憶が確かならば、結構な年齢になっても、様々な人に技法について質問をしていたらしい。

 それは別に大した問題でもないのだが、展示されている、彼の代表的な作品が「習作」ばかりなのは、興味深い。どうせ、習作だ、とでも思っていたのだろうか? いや、勝手な憶測でしかないが、習作でありたいと、マチエールやエスキースになる瞬間を思って筆を振っていたような気がする。俺が好きなジャコメッティセザンヌのように、意味から教雑物から逃れるという、子どもっぽくて真摯な精神態度、そしてその見事な結実。

 久しぶりに訪れた常設展も中々のもので、モーリス・ルイスの(垂れずに)斜めに線が走る作品は、始めて見たものだと思うが、彼の作品の中では、あまりよくないように思えた(でも俺は彼の作品が好きだ)。

 あとハンス・アルプの大理石の作品は、彫るのに色んな意味で大変そうだなあと思った。彼はそこそこ好きだが、増殖したみたいな展示方法をするともっと楽しそうだと思う。

 あとは船越安武の萩原朔太郎の頭部がとても良かった。前に見たときと同じように、凛々しい生き生きとした像で、それはきっと朔太郎というモデルの力も働いているにちがいない。

 残念ながら実物は見たことがないのだが、安武の初期の棒きれみたいな、たしか木彫の人物像がとても好きだ。見る機会はないだろうけれど、ぼんやりとした、美しいイマージュのまま、その棒きれは俺の頭に残っている。

 また彫刻作品は耳を省略や簡略化するのが一般的らしく、以前彫刻家に話を聞いた時にその人は「耳を作りこむとその両脇がポイントになってしまうから」と言っていて、俺もその意見に同感だったのだが、船越安武の朔太郎は、耳も美しかったことを追記しておく。

 印刷が良くないのは承知の上で、ポストカード位、というかその中でも一番ましだった暗闇の中にいる消えかけの白犬の画を買った、ら、スイカのチャージや入館料で、俺の財布には千円札が一枚だけになっていて、犬のような気分が味わえた。

 家には物が多い、俺は買い物が好きだ、そして、大量に売り払う。自分でも物に執着しているのか、していないのか分からないのだが、分かるのは、売り払わなければならないということだ。

 でも大抵査定は残念な結果で(というかそうじゃないと店が成り立たない)、大量の思い出が数百、数千円になると、変に清々しいような、どうでもいいような気がする。

 本当はもう一つ恵比寿の展示が見たいのだけれど、というかたった千円でぐだぐだ悩む俺は本当にダサイと思う。そういうのって、やっぱ厭だな、

 と、あと三日後に迫った喜ばしくない誕生日、バイトに落ちる率がさらに上がる日が迫っていて、突発的にそうだ、タトゥーを入れようと思った。

 以前も日記で、誕生日ごとに星とか花のタトゥーを入れられたらな、なんてライトノベルの頭が残念な主人公の設定みたいなことを考えていて、実際は大きな刺十字を入れただけで、結果として長身の俺には大きなタトゥーの方が似合っていると思うので良かったのだが、せっかくだから小さいのなら一万円くらいで、

 とかネットで検索をして、前回頼んだところにしようかとか、柄は単純な物じゃないと値段が上がるから逆十字や星でいいや、とか思っていた時にふと、我に返った。

 それは、俺のこのままの状態ではタトゥーを入れてもらえない可能性が高い事を想起してしまったからで、また、この幼稚な思いつきがさらなる明晰夢、もとい悪夢を連れてくることは想像に難くない。美しいタトゥーは、思いつきで入れるようなものではない。いや、それもいいけれど、俺はそんなパワー溢れる人間ではないことを忘れてはいけない。

 身体を粗末にしてもいいけれど、精神を粗末にしてはいけない、なんて文章はライトノベル的、だろうか? 

 外に出て近所の百円ショップに行くと、なんと! 神粘土が売ってなかった。死のうと思った。嘘です。

 太宰治が花か着物のことを考えて次の季節まで生きようと思った、なんて文章を書いていて、まー困った人だなあと思って、同じ困った人なら、漱石的な「反復強迫」の方がキュートだと思う、

 とか考えていると、少しずつだが気分が落ち着いてきて、でも、やはり葬列のような洗礼のような体験はしたいなあとか助平心が出てきてしまって、まあ、インスタントな物なら出来るだろう、しなければならない。なんて頭が残念な主人公気分が抜けないで俺