子どもたちはみんな





非常に調子が悪かったので、部屋を暗くしてイヤホンで『裁かるるジャンヌ』を再観賞していると、少し、気分が落ち着いてきて、すると突然、「あ、キリスト作らなきゃ」と思い立って、ジャンヌが終われば外に出る。

 以前、まだまともにアルバイトをしていた時に、吉田良の球体間接人形教室に通うかどうか結構迷い、結果、そんな金を捻出することは難しく、断念したのだが、まあ、俺の一番は文章だから、と言い訳をして、そうしながらも、もし俺が「超弩級頑張ってアルバイト」をして教室に通っていたら、と思わないこともないのだが、まあ、現実味の薄い事は、いいや。

 あの雑なティガーを作った後も、もう一体ティガーを作っていて、それ自体は結構楽しい作業だったのだが、出来上がりを見ると、本当に小学生の図画工作の出来で、そのゆるさが好ましくもありながら、少し、胸の奥が痛くなる。

 学生の頃、二、三人の教授と二人きりの時に、「なんでせんせいは作品を作らないのですか」とか、分かっていながら悪趣味な質問をしたことがあって、ガキ相手にそんな質問は、はぐらかすしかないのだと俺も相手だって知っている訳で、でも、対応するその瞬間の、壮年の人の顔は、少し、少年がかっていて、その瞬間だけは友達になれるような、恭しいような気がしていたのだ。

 本は読んでいたし、多少の知識はネットでも拾えるし、100円ショップで散在してしまって(「100円ショップ」で散在って、小学生かよ)、その後で新宿のボークスに向かう。本当は秋葉原でもよかったのだが、まあ、なんとなく新宿に行きたかったから。

 正直最初はスーパードルフィー(SD)もドルフィードリーム(DD)も良さが分からなかったのだが、見慣れると、これはこれで、と思うようになってきたし、50万だかの恐ろしい値段がついていたような気がする、SDの真紅(ローゼンメイデン)は、正直、ほ、ほしい、と思った。それにカスタムしまくったドールは、怪物のようなドラァグクイーン的美しさを湛えているものもあるし。

 でも、俺はボークスに並ぶ綺麗におめかしされたた人形よりも、値段が付けられ陳列された身体のパーツのひとつひとつや、もっと言うと、まんだらけのショーケースの中で、箱の中に裸で、頭部に線が入り(ここは髪で隠れる部分で、ここを開けて目玉を装着する)、ポリエステルで固定されている、ロボトミー手術を受ける前の少年少女達のような彼らを好ましく思う。

 ふと、ロックマン4のダストマンステージの曲を思い出す。ゴミを吐きだす機械と戦う場面の曲で、ステージも暗い背景の中でゴミを破壊しながら進むのだが、それを聞くと、不思議と自分が鉄屑だった頃の記憶が呼び起こされるような、気がして、俺も早くサイボーグになりたいなあと思う(いつものことながら、ちょっと、30前の男が書いたとは思えない、酷い文章だ)。

 ボークスに来た一番の理由は目玉が欲しかったのだが、一番安い、あまり欲しくないので千円というのは、俺には厳しく、ちょっと欲しいのは2、3千円するし、どうせ始めは失敗するの前提だし、結局何も買わずに後にした。

 新宿の雑踏を歩きながら狂熱が少し醒めると、食事を摂らずにいればいいんだとか金算用(は?)を始め、でも最近また無脂肪ヨーグルトとおかし生活になっていて、でもその反動で油ものやらを食べまくってしまうので、結局は普通の食事が一番、とは分かっているが、どうしても長続きはしない。どうしても。

 食事の歓びというものを明らかに俺は軽視していて、何かを得るには何かを犠牲にしなければ、と言えば聞こえはいいが、ただの怠惰の結果であって、でも、久しぶりに人並みの、そこそこ上等のものを口にする時の、舌の、歯の、歓びは、はっとするものがあって、そういった咥内の歓びも、やはりバカにしてはいけないなあと思う。

 幼い時、きっと家のお金に余裕があった時、母が茶を立ててくれたことがあって、言われるがまま、礼の後でぎこちなく器を回し、桜色の胎児のようなそれに口づけ、苦い茶を嚥下すると、ほんのりと身体が温かくなったことを思い出す。そして舌の上で溶ける季節を現す干菓子は、もてなしの心遣いのたまものであると、後に知ることになる。

 鎌倉時代(だよね?)に限らず、武士は茶道にも通じていたようで、それはとても合理的な行いだと思う。拷問と心尽くしは表裏一体の関係にあり、それはサディスティック、マゾヒスティック的関係というよりも、もっと「遊び心」のある、粋なはからいというような気がして、武道と茶道には仄かな憧憬を抱いていた。

 しかし現実は消費出来る分量ではない本やらCDやらゲームやらを買ったりレンタルしたりしつつも、それらを売り払うばかりの生活で、ちっとも武道的でも茶道的でもない。

 俺はリラックスする、というのが大の苦手で、俺の憧れの中にはきっとその要素が多分に含まれるのだろう。出来ないからこそ、憧憬の芽だけが萌えるのだろう。

 雑なティガー達を作って、素人写真を撮って、あんだけ偉そうな批評が出来るくせに、自分はこんなものだと思い知らされるのはやはり恥ずかしいことではあるが、まあ一番好きなのは一番好きなのは文章だし、と言い訳をしつつ、キリスト(の残骸)とか作っていけたらなと思う。

 何かを作りたいという気持ちはきっとすごく大切なもので、拷問も心尽くしも、きっと、どこかで。