紛い物のアガペーを君に



短い睡眠を繰り返しながら、短い感情労働そして様々な売却。段ボールで送ったり、荷物を背負って繁華街まで歩いて行ったり。そんなことを繰り返して、ふと、自分には何も必要ではないような気がしてしまう、

 くせに街に出ればまた、買い物をしてしまう俺。ははは。マジ、楽しいんだ、買い物、そして物を処分すること。

 しかし、ここ一週間の間で売る為とはいえ、ゲームソフトを四十本以上購入していて(まとめて売るとボーナスがつくのだ)、それに気がついたときに我ながら少し引いてしまった。(一週間ではないが)本だってその位借りたり買ったりしているのだが、単純に売る為に「割合楽しそうな」ゲームの封だけ切って段ボールに詰め続けるのは、データを、物語を虐殺しているような、妙な昂揚感に襲われる。大好きなゲーム、さようなら。グッド・グッド・バイ。

 元々ない集中力もさらに低下していて、つまらない本や映画を(見たくもない)他人の合コンを観賞するかのように消費、する中で、移動中の車内で好きでもない中沢進一の『イコノソフィア』を読んでいて、その中で言及されている「シャーマンと戦士における多くの共通点」ということと、つまり、彼らは限定的な「けだもの」になることを強いられていることを改めて想起し、今の俺は自分自身の蛮勇すら軽視していたことを思い知らされて深く恥じ入る。今のおれからそれさえも失ってしまったら、本当のクズだ、まあ、それでもいいけどね、でも、どうせなら素敵なクズの方がいい。ほら、俺、不動明君、デビルマンとか好きだし。

 大好きな、そして今の自分自身への激賞でもあるジュネの『綱渡り芸人』の台詞、


「そして踊るのだ!
 しかも勃起することだ。君の肉体はいらだち、充血したセックスで尊大なたくましさをもつようになる。だからこそ私は君におのが影像の前で踊ることを、またその影像に君が惚れ込んでいるように、勧めていたのだ。それを中断してはならない、踊るのはナルシスだ。だがこの舞踏は、見物人がそれとかんじるように、きみの影像に一体となろうとする、きみの肉体の企てに他ならない。君はもはや調和に富んだ機械のような完璧であるばかりでなく、君からは熱気がほとばしり、わたしたちを熱する。君の腹部は萌える。しかし、私たちのためにではなく、君の為に踊れ。私たちはサーカスに娼婦を見にやってきたのではない。針金の上に消え去り逃げうせようとする自分の影像を追い求める孤独な恋人を見にきているのだ。それもこの地獄めいた地域でのこと。だからこそ、その孤独が、わたしたちを魅惑してやまないのだ」

 本来ならば省略すべき分量だが、この部分は本当に好きで、本当に、そう思うんだ。他人の為なんかじゃない、孤独の為にナルシスを虐殺しろ。そうしたらきっと、愛してもらえるよお金をもらえるよ憐れんでもらえるよ栄光を貰えるよ、でもそんなものいらねえよ、な。

 そして『葬儀』の一節。

  


「 彼の眼から、たるんだ眼瞼の下へ瞳が溶けて流れた眼窩から、蜂の群が飛び立つ。市街戦の銃弾に斃れた若者を食らうのは、若い勇士を食い平らげるのは、容易なわざではない。ひとはだれしも太陽にひかれる。私の唇は血まみれだ、そして指も。歯で私は肉を食いちぎった。普通なら、死体は血を流さない、君のは違う 」


 こういった愛情を、俺も、嘘でもいい、抱かなければ、それは蛮勇に似たパッション<情熱/受難>。ユスターシュの『サンタクロースの眼は青い』のラストシーンで若者たちが「淫売宿へ! 淫売宿へ! 淫売宿へ!」というシーンに似た、安ものの暴力、を俺も身に宿さねば踏みにじられなければ、

 と思えば気分は幾分かましになって、また買い物を続けてしまって、ほら、フィリップ・ガレルの『内なる傷跡』がビデオで250円だったから買っちゃったんだ。俺はそこそこビデオとか探している方だと思うが、棚に並んで売ってるの初めて見たよガレル。

 俺は彼の映画が何だか美しくって、そして苦手で、それは俺に彼を紹介してくれた人が「これ(彼)は愛の映画だ」(ここは本当に、笑うところじゃない)と言っていたからで、その言葉のせいか、俺もガレルの映画をことごとく「愛の映画」だと感じてしまっていて、どうにも居心地が悪くそして、美しい映画。きっと、蹂躙するためではなく、消え去る、逃げ去る、追いすがる愛の映画。

 他にもつまらない映画や面白そうな映画が数本、レンタルして見ていない映画が数本、そして、もう、止めようこんなこと、なんて。

 何だか、体中が紛い物のアガペーで一杯、みたいな気分で、なんだ、まだまだ大丈夫じゃないかそうだろ、とか思ったりして俺。