花々を手折る為に僕ら

 ここ数日は割と涼しい日が続いているように思える、というのは猛暑続きの日々にさらされた勘違いでしかないのだけれど。

 どの位の学校で行われていたがしらないが、小学校の頃はプールの前に必ず体温を測り、記入したシートを提出していた。その時に自分の体温は人よりやや高いらしいことを知ったのだが、平熱が35℃台の、今思えば低体温症かもしれない友人に、密かに、少しだけ憧れていた。何だか、クールで、サイボーグぽくって、かっこよくないか?

 サルトルの短編集『水入らず』は高一の初夏、学校をさぼってマックの硬い椅子に座って一気に読んだ。こんなに面白くてクールな小説を書く人がいるのかと興奮した。ロブ・グリエやビュトールやデュラスは良く分からなかった(好きではなかった)が、カミュセリーヌやジュネやユルスナールは夢中になって読んだ。好きでもないけれど、モーパッサンも結構読んだ。大学に入ってからはル・クレジオウエルベックギベールも好んだ、とかフランスの作家ばかりを並べると、フランス大好きな人みたいだが、
俺はフランス語ができない。多分、なまけものだからなのだと思う。

 
 『水入らず』の冒頭の作品では、ひんやりとしたシーツの上で肌を遊ばせる人の話が出てくる。この話は、そしてひんやりとした、清潔なシーツに身を預ける瞬間というのはとても好きで、それは俺がわりかし熱っぽい身体をしていて、なまけものだからかもしれない。

 最低限の雑務と惰性の消化、そして最近は何だか映画ばかり見ている。映画がそれほど好きというわけではないのだけれど(好きな人は俺の二倍、三倍の量を見ているだろう、単に量を見たからどうだという話でもないけれど、それだけ時間を割いているのはいいことだと思う)、毎日のように映画を見ていると、何だか自分の時間の感覚が少しずれてきているような気がしてくる。繰り返す浅い睡眠、惰性で瞳に映るどこかの国のフィルム。

 それはきっと、いいことなのだと思う。

 映画や動画が無い時は音楽ばかり聴く。たまたま、ipodから再生された音楽が聞き慣れない、しかし心地良い音楽だったのでアーティストを確認すると、メロウなヒップホップ系コンピレーションのチルアウト的なナンバーだった。
http://www.youtube.com/watch?v=Cqyr2IoYEAQ


 冷たい、無機質な、攻撃的なテクノが大好きなのだけれど、こういうソウルフルでジャジーな冷たい曲も好きで、こういう曲はひんやりとした人肌という気がする、或いは、オールドローズのあの美しさのような。

 凛としたオールド・ローズの花の写真を拝見し、八重の、多くの人が頭に思い浮かぶであろう薔薇の襞<ドレープ>、の迷宮のような求心性よりも、花弁の少ないその花には、はっとする美しさがある、ように思えていた。

 はっとする。瞬時に連想したのは、二重の人と、一重の人だった。洪水のようにおしよせはびこり享受する西欧至上主義に依拠したオリエンタリズムの美しさ、とかいう発想に至った自分に嫌悪が湧くが、やはり、オールド・ローズの美しさ、それも野薔薇のようなそして花弁の数が少ない、にも拘らずそれが薔薇なのだという瞳を奪う美しさ、かつて良さが全く分からなかったマチスの赤、ようなしかしあくまで野暮ったさ(マチスの画における長所)はなく、子規の美しい花に関する二つの句を連想してしまう。

 朝な朝な掃き集めたる落椿紅腐る古庭の隅に

 地に落ちし葵踏み行く祭かな

 便利な二項対立それも、聖と俗の相克、とかいった羞恥無しに口にできないどうしようもない連想が、オールド・ローズには似合うような、そんな気がしてしまう。彼/彼女は、多くの人にとっては薔薇ではないしかし、薔薇でしかないのだ。荷風の『ひかげの花』という題を、高校の頃、素敵な形容だ、と勘違いしてしまった頃のまま俺は、野に咲く或いは手入れが行き届いていないオールド・ローズを目にして、「穢れを知った子供のように愛して」あげたく、その身を手折りたい衝動に駆られる、が、手折るまで、がオールド・ローズの美しさであり、手のひらに収まってしまった幼い花弁は、指で簡単に散らすのが似合いだろう。簡単に散らせる花ならば、早急に、薔薇という総体のイマージュをうしなってしまう。しかし、彼/彼女らが毟られるだけ、毟られる奪われる瞬間においてならば、誰もが連想する薔薇に負けない強度を持っているのだと、一等美しい花だと、そう思う。


 2011年にテレビ放映されたチェルノブイリの「今」のdvd完全版,『被爆の森から』を見る。一番初めの感想が「なんて綺麗な動画なんだ」と思った俺は、なまけものなので見るのは古い映画ばかり。

 汚染区域で一度は死滅したり奇形が生まれたりしていた動植物が、なぜか今は内部被ばくをしているのにも関わらず、繁殖を続けている動物と、そうではない動物に分かれ、人の立ち入りを禁じられている区域で悠々と暮らしている様子を追ったドキュメンタリーで、中々見ごたえがあるものだった。

 理数系はてんで駄目だし、放射能に対する知識もさほどあるわけではないので、動物の中でも平気なものと被害を受けてしまう者があるというのは意外だった(しかもきちんとした理由は分からず、その理由づけも憶測の範囲でしかない。)。学会で発表された論文が過ちであったり、それを乗り越えて研究を重ねて行く様は見ていて興味深かった。

 被爆地域近くで暮らしている人が木になっているサクランボを口にして、
「実は食べてもいい。でも種は駄目だ」と言って吐き出すシーンは、放射能の危険性をいまいち実感していない人間としてはやけに豪快だなあと変な感銘を受けた。

 この地域では、絶滅危惧種の、世界で1000頭しかいないモウコノウマという「品種改良されていない」(家畜化された動物とは品種改良の歴史でもある)馬が50頭前後繁殖しているらしい。

 色々考えさせられたし、淡々と誠実に、現状についての報告を見せてくれるいいドキュメンタリーだった。

 ひんやりとした、無機質な物も好きだけれど、やはり俺は所詮体温のある人間で、そういったものにも酷く惹かれてしまう。花々が小さい頃から好きで、小さい頃は「花=女のもの」みたいなガキ臭い意識があったのだが、高校生になって本格的に洋服を買い始めた頃からか、花に、花柄の服に強く惹かれるようになった。

 一人暮らしを始めて、気分がいい日や余裕がある時は数本花を買って帰ったりしたのだが、よほど似合って無かったのか会計時に「近くで撮影ですか?」と聞かれたこともある(俺は芸能人に似ていない)し、勝手にラッピングをされたりしてしまう。基本的にドレープの、重なる襞のある花々が好きな俺が悪いのだけれど。って、悪くねーよ、いいじゃんか、薔薇もラナンキュラスもトルコキキョウも。

 なにかあった時に、体中に葬儀のように(個人的には葬式は不要だと思うのだが)、花々が散らされていることを思うと現実逃避というか、いい気分転換になる。熱っぽい俺の肌に散らされる冷たい美しい体温。

 全身に花のタトゥーを入れたいな、なんてことは(金銭的に)夢の話になってしまっているけど、色々と片づけられたなら、部屋に花を飾りたい。その位ならうまくいけば、叶いそうな気がする。

 その時には美しいanthemを。

http://www.youtube.com/watch?v=zR4Q0hs1_Y0