小手先の詐欺師

 携帯をいじっていると数年前の、スーツ姿の自分の写真を見つけた。当時も気づいていたが、明らかにシャツの長さが足りないし、まるで調子に乗った猿みたいだ。

 スーツを着る機会なんてあまりないから、調子に乗って撮ったのだと思う。まるでコスプレ気分。本当のコスプレはしたことがないのだが、一度位してみたいかなと思う。

 仕事に就くときの従事する時の、あの、小さい嘘を重ねて、それで小金稼ぎをするというのは、本当に心身に良くない、なんて猿のようなことを昔も、今も思っている。そのくせ、小手先の狡猾さで、それなりにやってきた、やってきてしまった。人に迷惑をかけるのとか、かけられるのとか、あまり好きではないんだ。

 今日の適当に選んだ面接先では、有線だと思うのだが、エグ●イルの曲が流れていて、壁にはしょーもない、「みつを」や「みつる」みたいな標語が貼られていて、やっている人もギャル男を卒業しましたというか、そこにいるのはお兄系みたいな人ばかりで、完全に場違いだった。

 結構待たされて、途中で帰ろうかと思ったが、さすがにそれはせずに、やってきたホスト上がりみたいな方の話を聞く。語り口は明るく、前向きなちょっとガツガツしている感じで、やっぱりこういう人がこういう場所には必要だなと思いながら、その人が俺の履歴書(と会話)で食いついた部分が俺が「都会育ち」という点だったので、その部分を自分から話す。

 俺は小さい頃「悪い(ことをして金儲けをした)人」が住んで「いそう」な所で生まれ育っていて、引っ越した後も、実家はその周辺で、小さい頃から歩いて渋谷に遊びに行っていた。嘘はついていないけれど、相手に与えるイメージは虚偽だ。俺は雑踏や歓楽街が好きだけれど、その中の虚偽を愛するから。始めから嘘だって分かっているなら、俺も安心して、好きになれるから。

 仕事をした、かのような気分になって、しかし酷く疲れてしまって、アーケードゲームをしないのに寄る、ゲーセンのトイレで数十分寝てしまっていて、しかし目覚めは意外なほど良かった。フワフワした気分だ、多分、現状をあまり理解していないのだ。

 それを、幸福だと思う。家に帰りdvdの処理。


記録的な猛暑に見舞われた1978年のイタリア。10歳の少年ミケーレは偶然、廃屋の穴の中で鎖につながれた少年を発見する。少年の事が気になって仕方ないミケーレは少年と大人たちとの関係にある恐ろしい“何か”に気付き始める…


 という『ぼくは怖くない』というイタリア映画を見る。久しぶりに見たイタリア映画のせいか、そのイタリア語の発音が耳に新しい。物語としては単純で、しかし自然の中にいる少年らを映したシーンは心地良い物だ。また、あちらの国の日本人としては過剰なスキンシップ、すぐに手が出る感じは何だか新鮮だった。

 ある程度重々しいテーマを扱ってはいるが、映画としては万人に好かれそうなものになっていていいと思うのだが、それにしても感動の押し売り的スローモーション演出とかテキーラを飲んだヒサイシジョウ的音楽にはげんなりしてしまった。特に音楽はやかましかった。テキーラ飲まないでよ久石(彼の音楽が嫌いなわけではないです)。

 でも、イタリアというか南米と言うか、あのカラッとした熱っぽさは結構気分を変えてくれる。大好きなロス・ロボスの曲を思い出す。(本当は同じバンドの企画バンドのラテン・プレイボーイズの方がもっと好みだが。)

「life is good」
 http://www.youtube.com/watch?v=41Fnx8FnGoE

 けだるいアルコールを酌み交わす祝祭、かのような。曲の最後に小さな銃声と小さな歓声が上がるのも、すごく好きで本当に、life is good かもしれない、なんて。

 続いてクシシュトフ・キェシロフスキ監督のポーランド映画『殺人に関する短いフィルム』を見る。突発的にタクシー運転手を殺してしまったうらぶれた青年と、それと同時期に弁護士になることができた青年二人がキーパーソンになる。

 最初に見た時に、そのフィルムの異様な緑がかった暗さに驚いた。一瞬ベルイマンの映画やネオ・リアリズモの一連の作家の名前が頭をよぎったが、多分、それよりもゴダールの『アルファヴィル』やトリュフォーの『柔らかい肌』を想起した、方が適切に思えた。単に俺の思いすごしかもしれないが、通底している物があるとしたら、哀惜のような、或いは「やってしまった」(ことは二度と戻らない)ということかもしれない。

 うらぶれた21歳の若者は、突発的にタクシー運転手を後部座席からロープで殺すのだが、その方法がかなり生々しい。計画的犯行でもないし道具がロープだし、後部座席と共にロープで首をぐるぐる巻きにして、段階的に首が締まる描写を忘れない。

 運転手の抵抗が緩み、静かになった車内で、運転手が自力でヘッド部分を抜き取り縄をほどこうとするが、サイドミラーに身をひそめていた若者の顔が映り、前に現れた何度も棒で強打され、最後には入れ歯の片側だけが車の外に落ちる。
 
 若者は布で運転手の頭を多い、脚を引っ張り湖らしき場所に隠そうとするのだが、その途中で男が「かみ、さん」とつぶやき、恐怖と焦りでそこら辺にあった岩を手に取る、しかし、ためらう、けれど、ここまできて後には引けず、一度頭に岩を振りおろしたら、もう後は何度もそれを繰り返すしかなかった。

 そして話は(約)一年後に飛び、若者には死刑の宣告がされていた。その若者についたのは冒頭で登場した正義感とやる気にあふれた弁護士で、彼は近々子供が生まれるという知らせをうけていて、どうしても若者の判決を、新米の自分が彼を救えなかったことを気に病んでいる。そして上司に「そんなのじゃ弁護士として駄目だよ」と、まっとうな台詞を告げられる。

 そう、精神科医が患者にいちいち感情移入していたら仕事にならない。けれど、彼らが「転移」によって、(時には)死に物狂いで求めている物こそ、医者に求められている資質かもしれない。相手を受け止めること、理解しようと務めること。解決するために冷静な判断を下すこと。

 執行が決まった後で、二人は話をする。若者は未だに自分のしたことを理解しておらず、母親が自分に伝言はないかとか自分本位なことを心配しつつ、母のお墓の心配や若くして亡くなった妹についての打ち明け話をする。

 しかし淡々と執行の準備は進む。絞首用のロープの調節、失禁や体液の受け皿となるプレートを穴の下に設置する等、カメラは淡々とその影像を映す。

 そしてその時が来て、やはり最後に、若者は大きくとりみだす。しかしもう誰にも止めることは出来ない。目隠しをされ、身体を拘束され、そして、穴の下に体液をぽたぽたと漏らし、弁護士は草原の中に停まった車の中で涙を流し、映画は終わる。

 この映画が余計な部分をはぶいてわずか85分だというのもいい。どんどん削ぎ落さなければいらないなら。


 正直、自分に重ねて見てしまった。特に、若者が最後に両親にぎこちない「返済」をしようとする場面とか、いたたまれなかった。

 自分が他人の死を傷を集めているような気がしてしまうことがあって、多分それは人が幸福を集めるのと似たようなことなのだろうと思う。俺も「君ら」と大して変わらないんだ。彼の映画をもっと見たいなと思うし、その為にもう少し健康的な生活もしたいな、と思う。思うだけだけど。

 ポーランドのアーティストは知らないので、大好きなアイスランドのアーティストを。寒々として、温かい。何だか少し気分が良くなったような気がする、ような気がする、で成り立つ俺の人生。

http://www.youtube.com/watch?v=Li2z1jlOYHk