ぼくらみな、パーティピープル

 こまごまとしたことで、思わしくなく、何だか集中ができない。家にいるとふとした時に短い眠りに襲われて、起きた時に呆然としてしまう。時間を無駄にしたくはないのに。惰性で読み進める本にも意識がこころあらず、と言った感じで、未読のものであっても、何だか既知のものばかりに触れているような心持になる。

 そういえば映画のドキュメンタリーばかり見ているのも、疲れずにすむからかもしれない。とか言いながら見るドキュメンタリー、「ナチス、偽りの楽園 -ハリウッドに行かなかった天才」。運命のいたずらでユダヤ人が撮ることになる、ナチスのためのプロパガンダ映画、といった粗雑な説明でこの映画の大半は語りつくせてしまう、

 といった俺の精神状態があまりよろしくないのだ。

 というのも、この映画に落ち度なんてない、まっとうな、(人によっては)とても出来の良いドキュメンタリーであるにせよ、俺には何も響かなかったのだ。軽い説明文だけで、物語の途中で、もう満足してしまっていたのだ。

 どうでもいい映画意外は、一応最後まで見ることが多いのに、映画を見通す気力もないのかと少しへこむ。そう、別に無理してまで見ることなんてないのだが、俺はリラックスと言うのがとても苦手だし、リラックスなんて、途方に暮れてしまう。

 その原因のひとつが、来週ある兄の結婚式にあるというのは、自分でもはしたないとは思うが、やはり事実で、

 しかし俺は兄の結婚を望ましいと、喜ばしいと思っている。でもいい年をして、「お兄ちゃんおめでとう、俺も嬉しいよ」では、済むわけがないのだ。

 それに兄との、家族との仲は良好とはいえない。憎しみあっていたわけではないのだが、かなり険悪だった時もちらほらあったし、疎遠になっていたこともちらほら。

 でも、家族だって他人の集まりなのだし、ずっと仲が良いなんてほぼありえないだろう。俺はなんだかんだで家族に感謝をしているし、迷惑もかけた(かけられたこともあるけど)。多分、多くの人がそうだろう。そして、俺は家族とあまり一緒にいないほうが、お互い心穏やかにすごせると言うことだ。

 式に参加するとなるとどうしてもそれなりの金銭が発生するわけで、今の俺には金銭的な負担がどうしても痛いわけで、金が無いのも貧乏なのも別にいいとは思うが、貧乏臭いのは、相手にそう思わせてしまうのは、そういう場所では失礼にあたるということだ。物を売り払ったって金を借りたって、小奇麗にして、きちんと式の添え物のひとつになるのがマナーといえるだろう(添え物、というのは軽んじているのではない。式は無数のそういったもので成り立つものだから)。きちんとマナーを守るべきだと思えるような心の余裕くらい、持ち合わせなきゃね。つまり金。

 洋服を売りに行って、洋服は売れ線以外は価格の十分の一二十分の一なんてざら、なんて経験して知っているのに、泣く泣く手放したしかし幾らアレな服が好きな俺でもヤバイ、ギャルソンのオサレピンクカットソーの買い取り価格、300円。くらくらした。これ、幾らで買ったっけ、なんて計算とか他の店で売ろう(多分大した差はないだろうし、またこれで落胆するのは嫌だ)とかではなく、頭が麻痺して、そっかーギャルソンで牛丼が食べられるのかーと阿呆な気分になる。

 ふと、某質屋で360度バッグがかけられるハンガーに、全てヴィトンの例のモノグラムのバッグがかけられている光景を想起した。貧乏臭いなんてものではなく、奴隷貿易を見せ付けられているようだった。ヴィトンは嫌いではないというか、むしろ好きだけれど、あれが似合うのって、身なりのきちんとした年配の方だと思う。若者が「とりあえず生」みたいに身に着けるのって、どうなのだろう。そして、人気なのだから質屋には在庫があふれ、しかしはけるから売値は確保され、肉屋の店頭に並ぶ、調理すれば美味しい死体のような、かわいらしいモノグラム

 スーツを駄目にしてしまったり、失くしてしまったり、捨ててしまったり。どうも俺はスーツがあまり好きではないのかもしれない。スーツのデザインが嫌なのではなく、スーツを常に強要されるのが嫌なのだ。本当に、帰属意識の欠如した俺。それに、社会に組織に帰属するということは、くだらない嘘をどうでもいい嘘をさらさらと垂れ流すことだ。こんな感想を口にするほど未成熟な感性。

 俺がペットショップがどうも苦手なのは、そこにいる動物達がしばしばすごいストレスを与えられていることで、だって、ペットショップの店員は「飼育員」ではないのだ。愛情を、ストレスの軽減を行えはしないのだ。売れにくくなるから大きくならないように必要最低限の餌を与えられ、ストレスで狭いケースの中をぐるぐる回り吼える子犬を何度か目にしてきてしまったし、本当に酷いところでは自分の糞を食べている犬もいた。(食糞自体は人間にはショッキングだが、珍しい行為ではないだろうけれど)

 その子犬たちに、ストレスを必死に体現しているのが明白な動物に、かわいーと声をかける人がいるのが、本当に信じられないというか、もう、感覚が違いすぎると思う。災害で生きるか死ぬかの状況に置かれ、それでも家族や知人の安否を思い明日の生活を考えねばならぬ人に、日本の大学生が「千羽鶴」を贈ろうとネットで呼びかけたこと位、「わけが分からない」

 これは「相手のことを考えられない馬鹿」と片付けるよりもずっと、根の深い問題だと思う。コミュニケーションが円滑にいくだなんて俺は思っていないのだが、何をしても無駄なのだと言う無力感が思考を停止させる、いや、思考を停止することで、俺は自分の中の部分を守っている。理解できない人に本気で怒っていたら、過激な活動家になってしまうだろう、他の人に自分の正義を示してしまうだろう。

 惰性で、リラックスできなくて読む本の中の一冊、田口ランディの『パピヨン』を読む。

生涯を「死と死に逝くこと」の研究に捧げたエリザベス・キューブラー・ロス。ロスが残した「蝶」の謎を追い、田口はポーランド強制収容所跡へと向かう。生と死をめぐるシンクロニシティのなかで、看取りという現実に直面しながらロスを追い求め、捉まえた「死」と「意識」とは。

 だ、そうです。死を儀式化することで人はそれを乗り越えてきた。死はすべての人に訪れる、不条理な出来事だ。おそらく死以上に不条理な出来事などはほぼないような気がする。生まれてしまったこと、生き延びてしまったこと、勝手に死んでしまうこと。それらは理屈では解決するのはとても困難な出来事だ。

 だから人はそれを宗教や超越者の存在を措定して乗り越えてきた、もっと言うとある一線以上のことは考えないようにしてきた。しかし宗教的装置の衰退と言論の自由や哲学的思考の成果により、死は、覆われていた別の側面で人々を脅かすことになる。そして、その時代にあった、死を受容するやり方が求められていくのだ。

 ロスの生涯や功績や発言は正直目新しいものでもないというか自分をシャーマン的な存在となぞらえたり、オカルトチックな面に興ざめしてしまうのだが、(しかしホスピス的なアプローチとかはとても有益だし、生涯にわたる傷つき行くものへの献身的な態度はとても真面目な人なんだなと感銘を受けた)、この本で興味深かったのは、やはり田口ランディの家族との関わりだった。

 正直、俺は彼女の小説はあまりできが良くないと思う。だって、肝心なところで「オカルト」に逃げるから。センスがあるわけでもないから。立ち向かわねばならないところで「大いなる神とか魔法の力でなんだかよくわからないけれど世界(登場人物)は救われました」って、なんのご都合主義なファンタジー小説なの?

 でもこれは価値観の違いと言うか、だって俺がうへえ、となるユングやシュタイナーやコリン・ウィルソンとか、そういうのの影響をもろに受けてるから。

 それでもこの人のエッセイは俺には結構面白くって、それはこの人が商業的デビューをした(ヒットした)のが家族との確執を解決する為に書かれた小説だったからだろう。

 酒乱で暴力を振るう粗暴な父とやさしく無力な母。そして引きこもりで問題をかかえて、一人自殺をしてしまった兄。田口はその兄の最後にある疑問を覚え、いや、兄の人生に兄の行動に意味を見出そうとして、物語をつくる。それが彼女の長編小説のデビュー作になる(と思う)。

 でもその小説の(特に)ラストはかなり「ファンタジー」なもので、田口と同じメンタリティを持つ人にしか評価は難しいだろう。でも人は哲学では救われないが、物語によって慰撫される。それに彼女は書かずにはいられなかったのだろう。何度も、彼女は家族についてシャーマンについてエッセイで書いている。仲が険悪でも、結びついてしまっている家族。

 兄が自殺し、母も死に、アル中で粗暴な、小さい頃は怖くて仕方が無かった、しかし話せば理不尽さにブチ切れてしまう「自分に似ている」父だけが彼女に残された。そしてポーランドでロスの足跡を、「蝶」を探していると、父が癌に侵されていることが発覚する。アル中で認知症もはじまって、それでなくても嘘つきで粗暴な父と向き合わざるをえなくなる。

 俺は死者の声をきくとか、そういうのが本当に嫌いだ。だって、個人の尊厳を無視しているから。だから伝記の類や歴史の本で酷く嫌な気分になることがある。だって、お前の感傷や金儲けの為に勝手に人の人格をゆがめて利用するなんて、恥知らずもいいとこじゃないだろうか? 週刊誌のタレントの醜聞は、やはりはしたないものであって、それをはしたないと思わずに歴史的に価値があるとか価値を付与してしまうとかは、とても嫌な気分にならないだろうか(全部が全部だとは思わないのだが)

 でも、そういった活字はまあ、めくじらを立てるのもどうかな、とも自分で思うが、スピリチュアルとかで歴史上の偉人とかを「自分の言葉」で語る人間に、それを金儲けの道具にしている人間に、猛烈な吐き気がする。本当に、気持ちが悪い。人の弱みに付け込んで、故人の、そして「故人の」尊厳を勝手に自分の言葉にして語るなんて、あまりの厚顔無恥にブチギレそうになる。

 しかし、そのことで、スピリチュアルな体験で、残された者が癒されるとするならば。

 田口も、後半で勝手に蝶と父の死を結びつける。げんなりはしたが、吐き気はしなかった。田口の葛藤や戦いや献身の末に、超越的な物で(一部)救われたとして、誰が彼女を責められるのだろうか

 俺がブチギレそうになるスピリチュアルな、自己愛で盲目になり醜く肥大したシャーマン崩れ(の一群)だって、それで救われる人がいるのならば、俺は罵声を直接浴びせる気にはなれない。それに、当たり前だが面倒なのは、彼らは「悪人」ではないということだ。ただ、センスがなくて自己愛が強くて、「幸せになりたい」だけなのだ。でもやはりむかつくのは、肝心な所で逃げるということだ。相手の為に傷つく度量などはないということだ。でも相手の為にいちいち傷つくならば医者はシャーマンはなりたたないのだ。肝心な所で立ち向かうならば、多くの人の支持は得られないし、多くの人にさらに困難な現実を伝えてしまうと言うことだ。

 勉強のことで親に怒られたことは(関心を持たれたことは)ほぼなかったように思うが、俺が高校の頃に岩波のキルケゴールの文庫本を読んでいると「そんなものは読むな」と怒られたことを覚えている。親は西洋哲学を馬鹿にしていて、俺はそんな親をどこか「少し理解力がないのだな」と思っていた。確かに哲学は(ある一面しか)解決しないし、むしろ生きる気力を奪うものでもある。でも、色々知ったほうが、色んな考えの、真面目な人の知的体系を痕跡を知るのは、楽しいことじゃないか。

 でも、親の危惧どおり、俺は祝祭を、冠婚葬祭を素直に受け入れることが出来ない人間に育った。しかし生き延びてしまっている俺は、最低限のマナー位は心得ているようになった。

 数回、葬式に、結婚式に参列したことがある。葬式についてはここでは長くなるので置いておくが、招待されて自分から祝うために行く結婚式では、やはり、新郎も新婦も素敵だなあと思った。幸せになるために、お互いの為に、家族になるために、彼らが、そして式場のスタッフ達がもてなしを祝祭を執り行っているのは、やはり、美しいもののように思えるからだろうか。「おめでとう」と無心で口に出来るのは、やはり心地よい体験なのだろうなと思う。

 でも、それが兄弟の場合、単純に「おめでとう」では済む話ではなくなるのだ。俺は兄の結婚に「おめでとう」と思っていて、数ヶ月前、久しぶりに会う兄、そして初めて会う兄の妻に、シャンパンを持って突然家を訪問して「ご挨拶が送れて申し訳ありませんでした。俺が言うのもおこがましいのですが、兄のことをよろしくお願いします」と言ってラッピングされたシャンパンを渡し頭を下げた。少し話をしようという二人の言葉を遮り、無理に一人夜の街に歩を進め、だらだらと涙を流しながらひたすら歩いた。

 自己嫌悪がとめどなく湧き上がる。涙が出る吐き気がする。かみ合わない家族に、これ以上はもう、幾らでも嘘をついてやるからと思い、それのおかげで、小手先の狡猾さで、どうにか俺は家族をある一定以上は、不愉快にせずにすんでいるようだった。別に家族に限った話ではなく、ある距離を意識して、初めて人間関係が上手くいく。別に俺は受容されることを求めているわけではないのに、真面目に伝えようとしているのに、別の言語のように、話が通じないと言うことは、なんて落胆してしまう体験なのだろうか。

 祝祭の場に、自分は酷く場違いだと感じる。会社で、クラブで、集まりで、それなりにこなし、楽しみながら、ふと、自分はここにいるべきではないのだと早く逃げ出さねばならないのだと感じる。多分、これは治らないのだろうなあと思う。治そうと適応しようとしても、長年付き合っていると駄目なものは駄目だと分かるし、駄目でも、どうにかなってしまうことも学んだ。

 とにかく、兄におめでとうと言うはずだ。多分祝祭は素晴らしいものだろう。その後のことは、その後に。俺は自分が酷く神経質だと思うことがあるが、それ以上に阿呆でちゃらんぽらんなところがあることを知っていて、阿呆でよかったなあちゃらんぽらんでよかったなあ、と思う。川端康成の『忘却は恩寵』という言葉を想起する。忘れるのも、思い出すのも、俺はきっと得意だから、まあ、大丈夫かなと思う。