僕の骨はXtal

 少しのアルコールと錠剤で驚くほどすんなりと眠りに落ちて、早朝に目が覚めて、普段とは違う気分になった。清々しい朝、なんていつぶりだろう?

 洗濯物と掃除をして、代々木公園でシャボン。電動のを使うとかなりのシャボン玉が出るので面白い。風向きを考えながら、ひと気のない方に、シャボン玉を。音楽はやっぱり、テクノポップグレゴリオ聖歌ケチャガムランあたりがぴったりというような気がする。インスタント・トリップ。本当に、俺は好きなのだけれど、無理に友人を参加させてもすぐに飽きてしまう。飽き性の俺は、なぜだかシャボン玉にあきたりしない。よくわからないが、ぼおっとできる。すばらしいことだ、すばらしい音楽と共に。

http://www.youtube.com/watch?v=zR4Q0hs1_Y0&feature=player_detailpage#t=1

http://www.youtube.com/watch?v=-glW93t61o0&feature=player_detailpage#t=1

 

 でも、残念なのが、代々木公園みたいな緑が豊富な場所でやると、こそこそ写真を撮る人がほぼ必ずいることで、しかもさあ、一眼レフで撮るようなものかよ。シャボン玉だよ。ガキのあそびじゃんか、写真なんかに残さずに、消えるのがいいんじゃんか。中には後ろでずっと待機している人とかもいるし。

 芸能人が写真に撮られたりして、ツイッターとかにアップされるのとか、俺はすごく嫌な気分になってしまう。だって、見知らぬ人に写真で撮られるってかなり失礼なことだと思う。有名税、って言葉も嫌いで、芸能人だから多少は仕方がない、というのは俺も分かるけれど(マスコミとかはまた別の話で、てかマスコミもあまりいいイメージないけれど)、でも、人に会うなら、ファンなら、一言「すみません写真撮ってもいいですか」「握手させてもらってもいいですか」とか言うのが礼儀なんじゃないの? 自分の好きな人が嫌な気持ちになるかもしれないって、それでも優先すべき行為なのかなあ。
 自分らのコミュニティの盛り上がり、暇つぶしに好きな人とか、どうでもいい人を利用するって、結構はしたないことだと思うんだけれども。

 でも、シャボンをしなくても、木々の中で本を読むのはお尻が痛いけれど、気分がいいものだ。ほら、ヴォィナロヴィッチが口にする、

「つらいことだが、俺は自分自身の近づく死のせいで吐き気を催していることを悟る。
ベッドの上の友人が目を覚ます。睡眠中に動いたときに胴体にそって引き上げられた病院のガウンから、ぼたりとしたペニスと両脚と腹部のあたりでよじれているガン腫瘍の群れが現れる。彼が二度やたら大きく目を見開き、俺が花束を手渡す。二重に見えるんだ、と彼が言う。花が二倍になるね、と俺が言う」

 俺の住む街には小さな花屋が六件近くあることが分かった。結構多いと思うのだが、そのどれもが、花を売る気がない感じなのが残念だ。値札さえないところがしばしば。いや、花の並びとかレイアウトに気を使っているならいい。それすらなくて、ただ、花が「置いてある」だけ。

 たいていの街に一軒はある、薄汚れた、どう見ても繁盛していない、しかしつぶれていない定食屋みたいなものなのだろうか? 不思議な気分になる。自分のお店って、大変な努力と苦労で勝ち取るものだと思うのだけれど。リフォームしろよとかいいたいのではなくて、「生活」ができていれば、後は、いいのだろうか? 無駄なものを磨き上げる、労力を注ぐ、蕩尽する、というのにひどく、わくわくしてしまう俺は、少し戸惑ってしまって。

 でも、それだけで生活が成り立つわけがないわけで、でも、最近はやることをして、気分が良い。自分の身体が、自分のものになってきたような気分だ。ところで、君の体は誰のもの?

 十年前近くにACブームみたいなのがあって、すごく違和感を覚えた。貴方が社会に適応できないのは、小さいころのトラウマによります。(親に)愛されなかった、満たされなかったせいです

 って、普通に生きているなら、ほぼ全員、厭だったこととか親にムカついたりとか、厭な記憶とかあるものだと思うのだけれど。多少付き合いをしていた人が自己紹介で「僕はACなんですよ」と言っていて、驚いたし、何も言えなかった。だって、俺が何か言って変われるなら言うけれど、そんな簡単な話ではないし。それぞれの事情や、思いがあるのだから、他人が軽々しく踏み込むべきではない問題なのだと思う。

 のだけれど、何かあった時に社会や親、恋人とか人のせいにするって、とてもかっこわるいというか、よくない生き方だと思う。だって、社会や人は恨みごとでは変えられないけれど、自分なら、自分の力で変えることができるだろうから。本気で社会を変えようとか思って、活動をするなら別の話だ。そして、その選択をしたならば、別の問題と戦うことになるだろう。
 
 苦しんでいるのは分かるけれど、でも、戦っていない、自分で生きるという選択をしていない人に、一時の慰め以上の物を、誰も与えられないのではないかと思う。それでも、いい、のかもしれないけれども。

 俺は親とかに恨みよりも感謝の方が大きいけれど、かといってうまくやっているというわけでもない。でも、俺が本当に幸福だと思うのは、簡単にダメにしてしまうこともしばしばあるけれども、結構簡単に感動もできることだ。

 アルベルト・ジャコメッティの伝記映画を見る。俺が一番好きな彫刻家だ。生で作品を見られて一番うれしかった芸術家だ。本当に、好きだ、と言える幸福。

 映画としてはオーソドックスというか、特に言う点がないのだが、アンリ・カルティエブレッソンやバルチュスらがジャコメッティについて話しているシーンは、とてもよかった。だってさ、美術史家やギャラリストの類は作品を見て既視感を覚える感想を言うわけで、偉大な芸術家について言うことは割と限られていたり似たり寄ったりってのはしょうがないし陳腐になってしまうにしても、それは素人に任せて、プロなんだろ、って思ってげんなりしてしまう。

 何かを評するのは、ある程度の能力がある人なら、結構それなりにできてしまうから。「プロ」として、何でそれを選んだのだろう、と思ってしまう。彼らの多くが、趣味のよい聡明な素人だなんて、がっかりしてしまう。

 でも、ブレッソンやバルチュスはジャコメッティの言葉について、彼との対話において印象的だったことについて、自分自身の言葉で語っているのが良かった。すばらしい芸術が、芸術家がいたとして、つまり、作品が、彼ら自身が優れているのだと、それに感動しているのだと、実直に示しているのだから。

 彫刻は美しいものではないものを見る為の手段、と彼は考え、モデルに動かないことを強要し、何度も何度も同じことを繰り返す。ブレッソンの写真も見直したいなと思うし、モデルになったジュネ、矢内原の著作もよみたくなる、わくわくしてくる。

 ブルトンが彼に「頭部がどのようなものかは今日誰でも知っている」と告げ、「私は知らない」と反論し、シュルレアリスム運動から離反したというエピソードはとても好きだ。ブルトンを貶めるつもりはないが、俺はジャコメッティの意志や作品の方がずっと俺の好みに近いから。信仰、にも近しいほどの、変質的でストイックな欲望。そう、欲望。苦しみを選択するのではなく、欲望を。

 ベケットとの親近性を指摘していたが、俺もそれはそうだと思うし、すばらしい芸術はしばしば身も蓋もないことを指摘してくれる。ちっともおわってくれないのに、絶対に終わりはくることを。なぜだかは分からないけれど、ものが、たしかにそこにある奇妙な感じを。そう、どうせ死ぬのだから、きっと、欲望の方が麗しい。

 セリーヌの『夜の果てへの旅』を引く。主人公が気を許すことができた相手との別れを選択する場面。



 僕らが一生通じて探し求めるのは、たぶんこれなのだ、ただこれだけなのだ。つまり生命の実感を味わうための身を切るような悲しみ。


 この主人公の心情に完全に同意するということではないけれど、でも、この言葉はとても美しいと思う。この主人公が皮肉屋ではあるが厭世家ではないのも重要だ。彼は正直だってことだ。しばしば彼はうんざりするし長ったらしい悪罵を腹の内で繰り返す。でも、感動を悲しみを欲望を忘れたりなんかはしない。忘れてはいけないものだから、忘れてしまうのは、本当に悲しいことだと思うから。

 自分の身体が自分のものだって思えるのは、なんて幸福なことなんだろう。意志を欲望を確かに覚えるのは、なんていいことなんだろう。打ち捨てる為に吐き捨てる為にいや、ただ、気持ちがいいから、気持ちがいいことをしよう、って

 http://www.youtube.com/watch?v=PnTFKWAT-XE&feature=player_detailpage#t=4

すごくわくわくする、Xtalの中にいるみたいだ俺。