彼らの景色も

 雑務やらいろいろあり、しょーもないことに金のことを考えねばならぬことに、
というか、音楽と本があれば、割とやっていける俺は、それはそれで幸福なのかもしれないが、お金がなくても一人でぼんやりとでも生きていけるというのは、いろいろな物への執着が薄いのとも同じで、ふと、気付くと色々な物を失い、それもまた、そこそこ楽しめてしまっている、かのような。

 それでも、最低限の生活というのはあるし、来月のことなんて考えたくもない、

 からタトゥーの図案として、図書館で植物図鑑の花の絵とイコノロジー関連の本をたくさんコピーしていたら、知らないおばあさんに

 「まあ、これ、すごくきれいねえ」

 と急に話しかけられて、ちょっとだけ驚いたのだが、
「はい、すごくきれいですよね(だから肌の上にも入れたいんですよ、とまでは言えなかった)」と俺も同意する。施術費用も消えてしまって残念というか呆けた気分にもなるけれど、でも、花のことならば傷口のことならば針のことならば、考えることならばいくらでもできる。


 こんなときでも一応読書くらいなら出来ていて、しかし感銘を受けるのは再読する、既知の言葉ばかり、でも、素晴らしい言葉は姿勢は姿はいつだってその輝きを失わず、身を律する、肌の上に針が刺さるときめきを与えてくれる。

 矢内原伊作ジャコメッティに関するエッセイ。ジャコメッティは言う。

「描くことはやはり純粋な私のエゴイスム以外のものではない。私は自分の仕事を正当化するいかなる根拠をも持っていない。私が芸術の道にはいったのはエゴイズムの満足の為か、地道な職業に対する怠惰のためか、どちらかだ。どちらにしてもいいことではない、むしろ悪だ」

そうして四十五年、執拗に、自らのエゴイスム、為すべきことの為に身体を精神を捧げた。何かの為に自分の血肉を捧げられるだなんて、そんな価値があるだなんて、本当に素晴らしい、奇跡的なことだと思う。特権的な行為ではないし過剰な装飾が必要な行為でもない。でも、それを「為し続ける」というのは本当に困難で、そしてそれを為そうとする人はとても美しいということだ。

 ジャコメッティについてジュネはエッセイの中で「美には傷以外の起源はない」と語った。この言葉は一見面映ゆいようなものではあるが、しかし、違う。犠牲の上に成り立った言葉ならば、言葉だからこそそれは生々しい美しさを持って現前する。血は(好きな人のならば、たまゆら)美しいし、どうでもいい。

 ジュネは『綱渡り芸人』の中で檄を飛ばす


 「そして踊るのだ!

 しかも勃起することだ。君の肉体はいらだち、充血したセックスで尊大なたくましさをもつようになる。だからこそ私は君におのが影像の前で踊ることを、またその影像に君が惚れ込んでいるように、勧めていたのだ。それを中断してはならない、踊るのはナルシスだ。だがこの舞踏は、見物人がそれとかんじるように、きみの影像に一体となろうとする、きみの肉体の企てに他ならない。君はもはや調和に富んだ機械のような完璧であるばかりでなく、君からは熱気がほとばしり、わたしたちを熱する。君の腹部は萌える。しかし、私たちのためにではなく、君の為に踊れ。私たちはサーカスに娼婦を見にやってきたのではない。針金の上に消え去り逃げうせようとする自分の影像を追い求める孤独な恋人を見にきているのだ。それもこの地獄めいた地域でのこと。だからこそ、その孤独が、わたしたちを魅惑してやまないのだ」

 ちゃんと、俺も木戸銭なんてもらえなくても、芸人として浮草として、することもできることもあり、それはやはり、幸福と呼んでもいいのだろうと思う。