アイドルばかり聴かないで

 最近知り合いになった音楽好きの方と喋っている内に、お互いにアイドルミュージックもかなりすきだということが判明し、お互いにきもい(笑)というか、気恥ずかしい音楽を教えあう。楽しい。

 でも、その人も俺もアイドルには一定の距離があって、俺も実際のアイドルライヴには行っていないし、cdを複数枚購入(初回版とかそろえるだけ)とかもしていない。

 アイドル、というものに対して思うのは、俗化された、資本主義時代の信仰という気がして、つまり消費と自己愛の偶像という側面が強く出てはいる、でも、消費も自己愛も悪いことなんかじゃない。それを正当化して振りかざし、誰か(アイドル)に迷惑をかけるのが、みっともないだけだ。

 全ては許されている、として、でも、良くは生きたいと思うし、やっぱりそうじゃなきゃ、いいわけばかりして生きるなんて、どうせ一度で死んでしまうのにね。

 その人に(俺が一方的に送った)メッセージを一部変えてそのままコピーすると、



俺はアイドルを愛することって、結構残酷なことだと感じている時があるんです。でも、残酷な結果が与えられるからこそ、一過性の輝きだからこそ、アイドルは輝けるというか、一瞬のきらめきを体現できるからこそアイドルといえるのかもしれません。彼/彼女たちの人権を無視しているのではなく、アイドルではなくても、人間とし素敵な人にはなれるから。でも、アイドルとして輝いていられるのは、トップの人で、わずか数年(一、二年)位だと思います。だからこそ、みんなが惜しみ、熱狂するのだと。


 俺がアイドルに夢中にならないのは、たぶん俺自身が自分が主人公になって「遊ぶ」のが好きというか、小中学生から成長していないからかもしれません。だからゲームとか芸術以外は続かないのだと思っています。性格の悪いおっさんの評論とか哲学書とかを読んでなお、ゲームをしてしまうのは、ゲーム内の物語を求めているというのもあるでしょうが、俺自身が介入していきたい(それと、成長する彼/彼女らを見てその情動を補完する)という思いが強いからだと思います。

 アイドルに恋愛感情を抱かないのは、(気恥ずかしくはありますが、)お互い「一部」では賢明であって、つまり、愛情は双方向性がなければいけない、アイドルに「自分が」あげられる何か(それは絶対にお金ではないです)がなければならなくて、しかし「アイドル」と「ファン」では、それは無理だと確信しているからだと思います。

 だからこそ常識的にアイドルを消費出来るし、反面俺は熱狂して(それは自己愛でもあると思いますが)いる人達に、少しだけ、うらやましいような心持にもなります。

 俺は神様、みたいな人に対するあこがれはあっても、理知的に考えるならば(フォイエルバッハ的に神様は人間学から生まれたと表現する方が適当かもしれません)神様の照明は出来ないし、信仰を持っている人の多くは、俺には不純に映るんです。自分の心の安定の為に神様を利用するなんて! ということで、思索的な求道者として、仏教が一番興味深く肌には合います。でも、釈迦だって、所詮人間で、それが寂しく、頼もしく思います。

 アイドルも、一面での神様というか、神性を持っていると思います(ベンヤミンの「アウラ」みたいな(笑))。だからこそ、神様、いや、シャーマンに敬意を払うのは俺も当然だと思うんです。
 

 余談ですが、女神転生という世界の神様を合体で生みだして唯一神とかぶっ殺す楽しいゲームがあって、その外伝として「 アバタールチューナー」というゲームがあります。「トライブ」同士で殺しあう未来の世界で食らうことで強くなる修羅道の中で、生き残った者が「ニルヴァーナ」に行ける。その中で「テクノシャーマン」という記憶喪失の少女が特異点のような存在で、彼女の歌が兵士でしかない人々の殺人衝動、「飢え」を救い兵士に感情を生み出していくのですが…

 というような内容で、ゲーム内の脚本も書いた五代ゆうが小説も書いていて、SF、ライトノベルの類(正直おれはこれらがあまり得意ではないし、五代ゆうの他の著作に手を出したら正直、あれ、とも思いましたが)ではありますが、俺は(ゲーム本編をプレイ済みだったこともあり)かなり楽しめました。


テクノポップの、声を加工されたキラキラした彼女たちを見ていると「テクノ・シャーマン」という言葉が頭に浮かんでしまうんです。

 でも、俺は最近は、行きたいなら、行く方がいいのかなって思います。俺も結構出無精というか、場違いなのとかいやなんです(笑)



 残酷で心地よい声援、を選択したのはアイドル達であって、一応は仕事上の出来ごとなのかもしれないが、それでも、「資本主義(神性変異を身に受ける)シャーマン」的な役割 を持つ人達に「触れたい」と思うと、もう、その輝きが消えてしまうようにも思う。

 でも、「リア恋」をしてしまった人が「太い客」になるから、それをちらつかせて事務所(或いはホスト、キャバ嬢的な)はお金を儲けなくては「ならず」(彼らだって慈善事業ではないから当然のことだ!)

 でも、アイドルに迷惑をかける「ファン」や、あまりにも嫌な映像をメディアに映す「アイドル」(例えば男遊びをして丸刈りで泣いて許しを乞う、とかそれが金儲けにならないと思うと逃げる豚とか)とかには強い嫌悪を覚える。どこかで、信仰心もファンでもない俺は、大げさな表現を使えば、彼らをある一面で神格化しているのかもしれない。


 でも批評家評論家がアイドルのことを「●●はキリストだ」なんて言うのは恥知らずだと思う。だって、そんな釣り新書タイトルみたいなのも酷いが、常識的に考えても、●●が▽▽の代わりになるなんて、無理だって分かるはずなのに。でっちあげとか類似点なんて、こじければちょっと文を書くのが上手ければできるだろう。でも、人権を無視しているのだ、つまり、これは一方的なラヴレター(でもそれを活字で金を得ている人がすることではいというかしてはいけないと思うのだが)であって、彼らもまた、「アイドル」の前で、狂えているのだ。

 愛がすばらしいとするなら、たぶん、おかしくなれることだと思う。それぞれの尺度に大きな違いはあっても、でも、好きな物の為に好きな人のせいでおかしくなれるなんて、なんて、気持ちがいいことなのだろう。

 
 信仰のある人が御祈りをしているのを不思議に思うことがあって、もし、神話上の神様がいるとしたら、神話の、あのビョーキの人が書いたような出鱈目でキュートな物語も信じるならば、神様が、おいのりなんてしている人間に興味を持つだろうか? それに原典が本当の原典であると、誰が証明できるのだろうか? 神様の証明はされていても、原典の確実だと言う「証明」なんて、本当にはできないじゃないか!(というかそんな記述が「原典」にあるわけがないし)

 俺はあらさがしで言っているのではなく、本当に神様がいれば、どれでもいいからあの本が「本当」ならいいなあ、と思っているし、それと同じくらい、『偽典』、改竄という点にわくわくしてしまう。偽物でも、俺たちはわくわくできてしまう。愛もアイドルも、気になってしまったなら、本物でも偽物でも十分楽しめてしまう俺ら。

 俺はもしかしたら楽しむのが下手なのかな、と思うこともあるけれど、こういう雑文をだらだらかけている内は、まだまだいいのかなと思う。



http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=bo_7NrSqmIE#t=19



「ねえ そんなにアイドルを好きなら じゃあNegiccoにしてね」