水族館の夜、から出たならば

 少し、疲れて電車の中でぼーっと、適当に曲を再生したら、中谷美紀の『水族館の夜』で、松本隆作詞、坂本龍一作曲のとても素敵な曲なのだが、それを聞いたとき、以前品川の水族館に夜に行った時のことを思い出した。

 夜中の水族館、から出た時。緩やかな坂道、暗がりの中で光るイルミネーションは、水族館の中の景色が続いていたような心持になる。陸の仲と水槽の中の中間のような、先ほど目にした大きなエイが、ここにも泳いでいるかのような、幸福な夢想。

 
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4704715




水の音遠く響く
寝返りうつ夜の中
蛇口からこぼれる夢
ほら心が揺れ動いてる
忘れられない あなたを

空中に指で描く
優しい顔 冷たい瞳
首すじにわざとあざを
残したのも もう過去のこと
忘れられない あなたを



 ル・クレジオの『愛する大地』を再読。構成的過ぎる(とても批評しやすい)小説はあまり好みではないのだが(でも読む分にはそれなりに楽しいというか、楽だ。小説ばかり読んでいるならば)彼の素晴らしい、ほとばしる熱情はそこから抜け出すような熱も持ち合わせている。

 美はどこにいてもあなたをつかまえ、そしてそうっと、容赦なく引きずり出して、行ける渦動にまた投げ込むのだ。美には爪があり鉤があり、有無を言わせぬ静かな、独特の声があり、あなたを痛い目に合わせるのだ、それもいい気持ちにしてくれるまさにその時に、それが美だ。




あなたを痛い目に合わせるのだ、
それもいい気持ちにしてくれるまさにその時に、
それが美だ。

  だなんて、なかなか素敵な言葉ではないだろうか。



 笠智衆の自伝的エッセイ、『俳優になろうか』を読む。日経の私の履歴書を単行本化したものらしく、いかにも(昔の)私の履歴書に出ていそう、とは思ったのだが、笠自体はあの、小津映画のお父さんの役柄そのまま、謙虚な姿勢ではあるのだが、所々本当にちゃらんぽらんなのが面白かった。

 お寺の生まれで継ぐのが嫌で、仲間に「寺以外なら何でもいいだろ」とそそのかれて冷やかしで俳優のオーディションを受けたとか、実は落第生だったとか、他の寺に行き修行の時にふと読んでいた文章に反応して

「極楽なんてない」と独り言を口にして、それをその寺の僧侶に見つかり「あんたお寺の息子でしょう、如来様のおかげで大きくなったのでしょう」
「でも本当のことじゃないか」

 と口げんかになった、とか。

 あと興味深かったのがやはり監督との話で、彼は俳優ではあるが、映画は本(脚本)と監督で決まると口にしていて、俺も全く同意見であるので、つまり、雑なたとえをするなら、監督がシェフで俳優は食材のようなもので、映画はコース料理のようなもののような気もする。料理、だけだとうまい肉(優れた俳優)焼けばいいだけ、みたいな気もするが、そこまで単純な話でもないだろうから。

 小津の『長屋紳士録』に出演した際に、人間の動作としてどうにも不自然な動作を求められ、一応は監督の指示に従い繰り返すのだがどうにもうまくいかず、すると小津が笑いながら


「笠さん、君の演技より、ぼくの構図の方が大事なんだ、言うとおりにやってくれよ」

 冗談めかした言い方だったが、これはどの作品にも共通する演出方法だった、小津の中にはきちんと構図が出来ていて、そこに俳優をはめ込むのだから、ロケよりもセットが好きだった、と語っているのはなるほど、と思うし、現場の俳優が口にしているのだからとても説得力があるなあと感じた。

 また、松竹で大きなお世話になった小津の人気に対して同じ松竹の清水の評価がいまいちではないだろうか、との文を読み、確かにそれはそうかもしれない、と思い、『簪』と『ありがとうさん』を見る。

 彼の映画はいろいろと応援の様子が出てきていて、応援、というか弱者や傷ついたものに対するいたわりや思いやりのようなもので、明るくのんきな題材の中にも必ずと言っていいほど生々しい、のっぴきならない現実が描写される。

 『簪』でも『ありがとうさん』でも、題材としてはファミリードラマというか、コメディタッチの作品でありながら、帰るところを無くした(寄る辺なさ、売られていく少女)人間が主役に据えられている。全体を綺麗に映す、引いた構図がとてもぴたりと合っていると思う。応援も感情移入もあっても、さらり、と描いているのが人情劇としてちょうどいい塩梅でうまいなあ、と思う。

 ちゃらんぽらんも熱情もどちらも必要かな、と思う。それがあれば、水族館の夜、の続きのような生活を俺も。