動物ゲームの景色の中に

 六本木のボルテックスが昨年末に閉まった、ということは知っていたのだが、特に閉店を見ようとか思っていたわけでもなく、しかし年が明けてから向かうと、資材の搬入の為にしばらく中を開けています、といった張り紙がしており、説明文の末尾に、「六本木最後のゲームセンター ボルテックスより」といった文章が書かれていて、少し、物思いにふける。

 俺は基本的にゲームセンターに一人では行かない。だからボルテックスに行くのも、友人が行ったときに一緒に、みたいなのが多くて、ふと、中学生のころから、たまに覗いていたゲーセンが閉まったことを思うと、もう会うこともないだろう友人の顔らが浮かんできて、どうにもならないしどうでもいいけれども、閉店を残念に思っているような心持ちに気づくのだ。

 キリンジの「ジョナサン」を聴く。キリンジはとてもメロディが美しくって、エヴァーグリーン・ポップ、とかそんな気恥かしいコピーでもつけたくなるようなクオリティの高いアーティスト(楽曲)だと思うのだが、彼らのアルバムは初期の方が好みで、それは初期の方が夏の春の朝明けというか、ふとした涼しさ、のような無条件の気持ちの良さがあるのに対して、後期に行くに従って単なるエヴァー・グリーンではなく、アヴァン・ポップ、ミュージックといった感がしてきて、何だか澄み切った秋空のような、気持ちの良く心もとない気になってしまうのだ。

 http://www.nicovideo.jp/watch/sm10113150


 逃げ出そうぜ
 くたばらないうちに
 羽を飾りつけて
 逃げ出そうさぁ
 don't be afraid!

さわやか過ぎる曲にコーラスに、少しやさぐれた歌詞がたまらない。
 
 そういえば、俺は俳句に全く明るくないのだが、秋は収穫の季節で、それを悲しむのは貴族のアホぼんばかり、みたいなのを目にして、それはそうだなあ、と思った。秋に冬のことを思う、というのは、貴族ではない俺にとっては、ただの移り気なのだと思う。


 
 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

 小野小町

 (桜の花はすっかり色あせてしまった。むなしく春の長雨が降り続いている間に。そしてむなしく私が世に生きていることの物思いをしている間に)

 
 百人一首の中ではこの句がとても好きだ。というか、花に関して語っているものなら大抵好きかも知れない。



 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり

 入道前太政大臣

 (花を誘って散らす嵐が吹く庭は、真っ白に降り行くが、じつは雪ではなく、真に古(ふ)りゆくものは、このわが身なのだった)

 
 あ、なんかこの句似てるなー。所業無常感というか、本当に、そういうことが怖くて、好きなんだなと思う。俺の身体にぴたりと吸いつくような、そんな感覚。

 テレビ番組をテレビでは見なくなって久しいが、ネットで見た某番組で、カプコンの『龍が如く』とかのプロデューサーで社長の名越がバラエティに出ていて、外国ではその色黒の肌にブランドで固めた、メンナク、メンエグ+ウオモ、レオン、みたいなヤク…「兄い系笑」の外見から、外国のファンとかからはYAKUZAとかあだ名がついている彼、の発言はガツガツしたポジティブシンキング、エグザ○ル系というか、体育会系サラリーマンみたいなスタイルでもありながら、彼が社長としてそれを長所でもあるときちんとフォローした上で「今の若者はがっついていなくて、借金してでもいいものや欲しい物を手に入れた方がいい。そのことで新しい物を作る力になる」みたいに語っていて、それはなんか、俺もいい考えのように思えた。

 だって、リスクを恐れずに色々しろよってことだから。欲望も欲求も大切にしていないと、簡単に生活の一部になって、どうでもよくなる。くだらないことに、くだらないことの為に、色々と捨てていけるなら、それでも楽しいのならば、きっと、秋の日にも春の日にも、それなりにやっていけるのだろうかな、と。

 まあ、俺に限ってはもう少し先のことを考えねば、とも思うのだけれど、どうでもいいし、どうしてもいいのだと、そんな当たり前のことを思うと、何だか、どんな曲も聴いていけるように思うから。

 武田百合子のロシア旅行記犬が星見た』を再読した後で、『遊覧日記』も購入して再読。何年も前に読んだからあちこち記憶がないのだが、それにしても、素晴らしい文章で、読んでいくうちに記憶がよみがえり、きっと、その時も覚えた感覚を思い出す。

 『犬が星見た』も素敵だが、『遊覧日記』の方が東京のあちこちを「遊覧」したエッセイということで、まとまっていていいと思うし、俺としても、その地の記憶も思い出す。

 浅草、青山、代々木公園、隅田川、上野、といった地名も、彼女の瞳に映ると、当然ながら俺との差異があり、それがまた楽しく、読んでいてわくわくする。

 夜に帰宅した娘が、友人と隅田川の花見に行って興奮した様子で語っているのを受けて武田百合子は、


「それなら、あたしだって、その情緒に浸ってみたい

 二日経った夕方、お弁当箱にご飯をつめ、卵焼きととりのからあげを作り、そこへ出かけた。地下鉄終点浅草駅を上ったところの松屋で四種類の精進揚げと魚フライと缶ビールを買足す。吾妻橋を渡っていく時、何だか急に眠たくなってきて、靴が脱げたりする。」

 これを六十くらいのおばあちゃんが書いている、というのがなんとも可愛らしい。彼女のエッセイはとても面白いのだけれど、ただ、かわいらしい、というわけでもなく、解説の厳谷國士が文章を引いて指摘しているように(レネやキェシロフスキのような、美しい着物を着た年配の女性が頭から倒れて、ごりごりと石と頭がすりあう音まで淡々と「スケッチ」)彼女の

「何かに感情移入したり、共鳴したりすることがほとんどない。他人とのナアナアもなければ、花鳥風月にまつわる情感吐露もない。そもそも、紋切り型を許さない。見者はコドモのように潔癖であり、異邦人のように距離をおくすべを知っている。そして、そこに絶妙のユーモアが生じる」

 という評は俺の感想とも重なるものだ。巻末にある敗戦後の自身の体験を語った短いエッセイ「あの頃」もとても素晴らしい。

「負け戦でではあったけれど、このままいつまでも続き、その間に誰もかれも私も、あと先はあっても死んでゆくのだと思いこんでいたら、ある日、思いがけなく戦争は終わり、真青な空の下でポカンとしてしまった」

 この冒頭の、悲壮さと何だか間抜けな感じは、とても「自然な感想」のように思えて、俺の胸にもすうと入ってくる。どうしようもないしどうにかなってしまう、そんな日々、を楽しめるかどうかは、その人自身にかかっている。

 勿論、そんな空元気ではどうにもならないことも、もう取り戻せないことも色々とあるということを、若くもないし、年をとっているわけでもない、来年に30になる俺は、多少は知っている。

 だから、何かを代償にしても、色々と手にすることを。なんてことを、よく書いていて、欲望も悲しみも喜びも簡単に移り行くのだから、その時の気持ちは大切にしたいから、まあ、俺もヤンキーの国の王子様笑みたいな恰好で精神で。虎か豹の外套を、それか、肌の上に直接に。かっこいい、と思えることがあるのは幸福だってこと。