さくらを忘れて

 髪を少しだけ切って、春物の洋服を少し買って、タバコより少し大きいタトゥーを入れて、気持ちにスイッチが入ってきた気がする。まあ、カードで買い物をしまくっていたので、ふと、預金残高を見たらそっ閉じな感じだったが、まあ、それでも気分だけは春近い感じで。

 単純に季節では春が一番好きだ。気候が温暖だから好きな洋服を着られるし、花々や桜の季節だし。一人でも一人でなくても、花見に今年も行こうと思う。桜が散るのを見られるのは、とても素敵なことで、公園で花冷えの指にアルコール、なんて、すごくキュートだと思う。




http://www.youtube.com/watch?v=Mut_jxG1Uhc
The White Stripes - Seven Nation Army



こんな茶番劇とはおさらばして
地味だけど堅実な仕事をする
体中の毛穴という毛穴から
汗が噴き出すまで働くんだ
今もこうやって傷ついてるけど
神様と向き合ったなら
あのウワサもまるで血のように
この体から流れ出て消え去るはずだ
そしてそうなったら
もうあれこれ悩まずにすむ

なのにこの体に流れてる
血で出来た汚れを見ると
「元いた場所にさっさと戻れ」
そう言われているような気がするんだ



 ジャックのしわがれた声とメグの大味なドラムがとってもクールで、元気が出てくる。大学時代によく聞いていた曲。

 先日数年ぶりに大学近くの繁華街に行った。少し、様変わりした町に、ほんのりとした懐かしさを覚えた。どうでもいい、けれども、割と好きだったさまざまなこと、なんちゃって。


 松涛美術館ハイレッドセンターの展示を見に行く。正直別に彼らの活動が好き、とはいえないというか、俺はハプニングにまつわる一連の行動に懐疑的であって、それはアートワールドの中でしか生きられない、キャプションがあってやっと自立する、要するに市場における商品でしかなく、批評しなければならない批評家の飯のタネになるから結託されて市場に出回る類の物に気持ちよさ(しかしこれは厄介なことだらだが)以外の物を見いだせるだろうか、投資家とビジネスマンの様子を美術という言葉でパッケージするなんて、はしたないと思う。

 のだけれど、それらの活動全てが死に児であるとも思っていない。ダダは何も意味しない、といったツァラ、それでいいし、もういい加減にしてほしい、とも思うが、なんにせよ初めてやった人、新しいことを見出そうとする姿勢があるのならば、それは無碍にするものではないとも思う。

 実際彼らの活動は刺激的だったように思うし、それが今から見ればいささか時代遅れであったとしても、蛮勇を知る、それに敬意を払うのは無駄なことではないように思える。

 特に赤瀬川の衰えを知らぬ多方面での活躍ぶりは、本当にエネルギッシュで、色んなものが好きで楽しんでいるのだなあと思い、素直に素敵だなと思う。話している姿も快活で、人柄の良さもうかがえた。

 会場のオブジェの中で、ふと、高松次郎の影絵のような油彩を見つけ、大学時代に府中美術館で見た展示の記憶が蘇った。

 そう、展示なんて数年に一度、有名人のをローテーションするわけで(しかし館長はごく一部を除き名の知られたものでも別に利益なんてないようなもの、とこぼしていたが)数年に一度作品に再び出会う、なんて珍しいことではないのだが、でも、俺はその絵を見て、確かに感銘を受けていた。

 素直に、また、色んなものを見て、忘れて、また、出会って行きたいなと思った。

 多くを忘れないさい、多くを愛しなさい、という言葉を俺にくれたのは、マザーテレサだけではなく、川端康成ジャン・ジュネの影響も大きく、ジュネの『葬儀』を読み返し、うっとりとする。また、『綱渡り芸人』の一節、



「そして踊るのだ!

 しかも勃起することだ。君の肉体はいらだち、充血したセックスで尊大なたくましさをもつようになる。だからこそ私は君におのが影像の前で踊ることを、またその影像に君が惚れ込んでいるように、勧めていたのだ。それを中断してはならない、踊るのはナルシスだ。だがこの舞踏は、見物人がそれとかんじるように、きみの影像に一体となろうとする、きみの肉体の企てに他ならない。君はもはや調和に富んだ機械のような完璧であるばかりでなく、君からは熱気がほとばしり、わたしたちを熱する。君の腹部は萌える。しかし、私たちのためにではなく、君の為に踊れ。私たちはサーカスに娼婦を見にやってきたのではない。針金の上に消え去り逃げうせようとする自分の影像を追い求める孤独な恋人を見にきているのだ。それもこの地獄めいた地域でのこと。だからこそ、その孤独が、わたしたちを魅惑してやまないのだ」



 春に、桜に、ぴったりだ。少しのめまいで生きていけるくらい、俺は阿呆で、幸福。

http://www.youtube.com/watch?v=3WfVir1_Edc&list=PLE0297B8D297AD397&index=70
Brigitte Fontaine - Comme à la radio



 マジ、フォンテーヌの2、3、4アルバムは傑作だと思うのだが、有名なセカンド、のボーナストラック、「黒がいちばん似合う」がyoutubeにはなかったので、この曲を。彼女は作詞の才能もそうだが、歌を声を楽器のように使える稀有な才能の持ち主で、聞いているとうっとりする。声量とか音域とかなんてどうでもいい。自由に叫びを情欲を歓喜を頌歌に。自由だ、気持がいい、ということだ。好きなものを好きなように、なんて困難で幸福な時間。


 最近毎日映画を見ていて、短い感想でも書いておけばよかった、と思うのだがまあ、書かないとすぐに面倒くさくなってしまって。でも、結構感想でも、後で見返すと楽しかったり、その時の自分の感想や感情も思い出されたりして。


最近見た中では『セラフィーヌの庭』がとてもよかった。


実在の女性画家、セラフィーヌ・ルイの生涯を描いた人間ドラマ。1912年、フランス・パリ郊外のサンリス。家政婦として生計を立てながら孤独の中で黙々と絵を描く日々を送っていたセラフィーヌは、ある日ドイツ人画商、ヴィルヘルム・ウーデと出会い…。



なんて、俺の好みのかなーって気軽に見たのだが、いやあ、見ごたえがあって素晴らしい映画だった。演技も生々しくそれでいて簡素な画面も良いが、この主人公の画が良かった。

 分類で言うと素朴派、アウトサイダーアートに分けられるだろう、ゴッホとルソーとルドンが入り混じったような、花々の画を描く女性。彼女は神の言葉を聞いている、と思い込んでいて、一度は認められた画も戦争で展示やらの約束はうやむやになり、映画も史実通り、精神病院で死ぬ。


 アウトサイダーにたいして思い入れはないのだが、その中の一部の人にはとても惹かれてしまうのはつまり、彼ら、彼女たちは、とても素直で無駄がない、ということだ。好きなことの為に他はどうでもいいと思える覚悟があるからだ。別に生活の心配やらが悪いことではないけど、な、別に俺とかお前がどうなったって、神様も(俺に信仰心はない)芸術も花々も困ったりしない。それはとても素敵なことで、自由だ。自由に、好きになればいい、忘れられれば、思い出せばいい。

 そう思うと、桜の季節がなおのこと待ち遠しく、四月に、また、桜に会い、俺も歳をとることが、なんだか実感が薄く、でも、まあ、少しは、楽しみだ。