阿呆はくたばりたくはない

 休みの日に午前中で病院のはしごをして、午後から面接、ということをしているのに、なぜだか気分はあまり落ちていないというか、諦めて現状を受け入れる方がまだまし、と判断したのかもしれない、知らないが。自分のことだけれど。

 最近ほぼ毎日2時間くらい寝たら必ず起きてしまい、夏は体調をくずす事が多いのだが、それにしても今年は酷いなあと思うし、俺は自分の「不健康だけどどにかなるでしょ」、という楽観的なアホっぷりを疑い始めている… こういう楽観的な視点というのは、(どうせ考えて解決することではないので)割りと大切だと思うのだが、でも、体調不良にばかり振り回されて危機感とかが薄い俺にはいい機会、なのかもしれない、と思うことにする。

 だらだらしすぎだ。でも、交感神経が優位というか、最近疲れたまま緊張状態というか、何かしたくてたまらない。

 そのはけ口が買い物に向いていて、だって、サマーセール期間なわけで、ブランド物の古着なら値引きされたものからさらにプライスダウンなわけで、もはや正規の値段って何?状態なわけで、

 気がつけば、シャツ三枚 パンツ四本 バッグ4つ ブルゾン一着 コート一着 靴一足  を買っていたみたいなんです。ここ二週間位で。

 ヤバイですね。でも、ほんと安かったんだ。だからこんなに調子に乗ってしまったんだ。 振り返って自分でびっくりした。こんなに買い物をしたのは久しぶりだ。

 でも、それにしてもrogenの三万五千、45rpmの二万五千パンツがどっちも十分の一とか、安すぎだと思いました…そりゃあ、買うでしょ。

 他にも色々ヤバイねだんだったのだが、十分の一以下の値段がついた(質の高い)商品のことを思うと変な気分になる。虚しくも楽しい。もともと値段なんてあってないようなものだし、十分な収入がある層に向けた商品なら値段が高く無いと逆に売れないとか言う逆転現象も起こるわけで、ファッションはアホみたいに、楽しいなあと思う。

というか、どちらもかなりサイズが大きいとかデザインが攻撃的だったりして、在庫処分+サービスみたいなのだと思うのだが、やばいデザインの大好きで、そういうのはアホな値段がするくせに合わせにくいので、こういうセールの時しか買えないのだ。でも、お祭りみたいで楽しい。

 本当は欲しい服というのもあるし、例えばギャルソンの30万の白いコートやマークジェイコブスの二十万の臙脂色のショート丈のコート、とかが数万円になっていても、さすがにそれは買わなかった。ほしい物を買い続けたらあっという間に文無しだ。

 でも、何だかんだで色んな「本当に欲しくはないかもしれない」服たちを組み合わせた俺のファッションも、中々それはそれで楽しいのだ。全部、なんてハナからムリなので、手に入る物でどうにかしなければならない

 それは楽しことだと思うのだ。


 最近映画をレンタルしてよく見ているのだが、面白かったのが、高校の頃に見た『トレイン・スポッティング』一本という間抜けっぷり。(ちなみにこの監督の他の映画も見てみたが、びっくりするほどつまらなかった)

 というか、高校の頃見た時と同じように楽しめたのは、なんだか嬉しかった。
 主人公は本当に屑だ。ヤク中で自己中で周りを見下していて、しかもずる賢い。不幸からはするりと逃げ出す。でも、そういう映画があってもいいような気がする。彼はこの後もずるくやっていくのかもしれないし、しっぺ返しが待っているのかもしれない。

 でも、教訓なんて(多くの場合)まっぴらだ。クールじゃないから。どうにかなってしまう、どうにもならないなんて、なんてつまらないんだろう。教訓が身にしみるなら、それはとても痛々しい体験なのだと思う。というか、俺みたいなのは、もう少し真面目に生きたほうが「まし」という気もしてきたが…まあ、それは別の映画の人に任せて。

 エルメス ル ステュディオ でクリス・マルケル『サン・ソレイユ』を見る。俺は初めて隣の人が寝て、周りから退席する人が出る映画に出会った。

 詩的なナレーションとスチル写真のモンタージュで独特の美学を追求するシネアストによるドキュメンタリー。南の象徴としてのアフリカと、東の象徴としての日本。相対する二つの地を、フランス人監督ならではの客観的な視点で捉える。
世界を旅するカメラマンからの手紙。

 といえば聞こえがいいが、それは例のオリエンタリズムの産物であり、今更ボードリヤールやらレヴィ=ストロースを真面目になんて読みたくないし、ロラン・バルトの見た『表象の』日本なんてあーそうですか、という感想しか出なかったし、でも、まあ、そういうものなのだと思う。
 
 俺が大好きでそしてその才能は疑いようもないマルグリット・ユルスナール三島由紀夫について語ったエッセイが微妙な出来であるように、ネットが普及していない世界におけるユートピア/ディストピアというのは、つまり詩的なものであって、ネチネチと責めるような方が、多分クールではない、のだろう。(トレイン・スポッティングの主人公君、ユアン・マクレガーなら、どう思うだろうか?)でも、だったらポエジーとしてつまらないかどうかが焦点になってもいいわけで、

 数十年前の日本でもぐらたたきをする男性について監督が「彼にとってもぐらたたきに書かれた役職、課長部長社長というのはアレゴリーではないというのだ」とかさらには「パックマンというのはつまり〇〇なのだ」という短絡的な断定というのは、げんなりしてしまった、

 けれど、日本語が不自由な監督がつけっぱなしのテレビから流れた言葉を、ふと、「理解してしまう」シーン(それは自国の、ネルヴァルについてのNHKの教養番組であったそう。)というのは美しいと思った。

 それに俺だって最後までちゃんと見た。美しいシーンがちらほら、あったように思うし、というか、監督のセンチメンタルな逍遥に付き合うというのも悪くないのだろう(すごい上から目線ですね!)。
 
 俺が男だからだろうか、こういう「理屈っぽい人ら」のセンチメンタルには辟易してしまったりかなりの隔たりを覚えてしまったりするのだが、それは彼らがそれでいてそれを恥じていないから、なのだと思う。彼らは自信満々なのだ。でも、イメージ、シンボル、アレゴリーというものを恣意的に、我が物顔で使用する。その傲慢さ。それだからこそ作品を生み出す、生み出せるエネルギーがあるのだろう。でも、やっぱりなにか作っている、考えている人が俺は好きだし、自分もそうでありたいと思うのだ。

 銀座ではさすがに買い物がほとんどできないのだが、鳩居堂にはかなりの頻度で行く。絵葉書をよく買うのだ。春には葉桜、というのまであり、本当にセンスがいいなあと思うのだ。 母にあげるとネット大嫌いで手紙を書く習慣があるから、とても喜んでくれる。俺はネットができるが、手紙を買ってもあげる相手がいない。

 でも、俺は、もちろん、自分を不幸だなんて思っていないし、ふと、ボリス・ヴィアンの詩集、『僕はくたばりたくない』を想起して、そう、いつもこういうどうでもいい連想で、くたばるのをなんとかすり抜けている俺はクール、とはいえないが、阿呆なりにそれはそれで楽しんでいるのだろう多分。