黒足の太鼓叩き

 日記さぼっておりました。

 些細な、色々なことがありながら、何だかそれを書くのが億劫になっていました。

 先日仕事で足の親指を痛めてしまい、しばらく仕事にならないやんけ、ということでとても痛いし、落ち込んでいたのですが、落ち込んでも自体は好転しないわけで、腹をくくるしかないなあ、と思い直すことにしました。


 膿んでしまったのか、初日は痛さで眠れず、というか漫画みたいに帰宅してからひどくなるし痛みはひかずに「痛いよぅ」と口に出してしまったほどだった。翌日は仕事にならないからと休みを入れたし、久しぶりに睡眠薬を飲んで無理やり寝た。

 俺は朝起きられないほうが恐怖なので睡眠薬を飲まないのだが(神経質なので、アラームをセットしたらほぼ確実にそれより早く起きる)あのうすぼんやりとした倦怠とまどろみ、そしてそれから覚めて惰眠を貪ってしまったことへの後悔、打ち捨てられた流木の気分だ。
 
 というか、こんな雑記でも、ずっと書かないと書き方というかリズムを忘れてしまうというのが、おそろし。

 少し涼しくなってきて、やっとシャツを着られる季節になってきたと思う。ちょこちょこ服を買っている。無駄遣いだなあ、と思いながらも、無駄なものを買えない人生なんて、なんて味気ないものだろうと思っているので、仕方がない。

 人と仕事をしたりいっしょにいるということは、多くの場合当たりさわりのない、意志疎通の為のコミュニケーションが求められていて、そういうもののルーチンワーク感情労働の割合が高くなると社会にはなんとか適応している、といえるのかもしれないけれど、欲求がなくなる。創作とか何か、を見なくても平気になってくる。

 それは、悲しいこととは言えないかもしれないし、それぞれ折り合いをつける、それが、生きるということなのだと思う。召使に任せてしまえ、なんて嘯くのは、多分ティーンだけがかっこいいものだ(それか作者か)

 最近、初めてむげんどうで買い物をした。存在は知っていたが、買い物はしたことがなかった。でも、驚くほど色んな物が安い、安すぎる! アジア雑貨って元々そんなに高くないはずだが、それにしても、安い。そんなに欲しくないものも買ってしまえるのが嬉しい。

 例えば、俺に金銭的余裕かガッツがアレば、ちょっとアジアに小旅行、みたいなのができるのだが、自分の生活能力のなさというか、甲斐性のなさにちょっとびびる。それにしても、俺も31才でこんな高校生気分というのは、すごい、阿呆なわけで、例えば今回みたいな病気になった時に「保証」というか、「溜め」が薄い、低すぎて震えるわけだが、まあ、その分ちゃんと目を見開いて生きていかなきゃな、と思うのだ。

 曇った眼で見る景色も、それはそれで、惰性の中の怠惰な、古びたメリーゴーラウンドから映る景色も、悪くないかもしれないけれど、ずっとそれに乗っているわけにはいかないから。少しは、動き出さないとなって思う。

 むげんどうでタイコ、コンガとかが売っていて、超ほしいけど邪魔になるから…と買い渋っていて、たまたま遠方に住んでいる友人にメールしたら、家に誰かの忘れ物があり押し入れで埃をかぶっている、とのこと。ラッキー!

 着払いでいいといったのに、郵送の上にお菓子とcdrも添えてくれていて、ありがたいなあと思う。お返しをちゃんとしようと思う。ささやかでいいから、誰かに何かをあげ続けられるような人生ならいいなと思う。

 吟遊詩人、って今の時代なら無職でしょ? 楽器くらい演奏できたら、楽しいのかなと思う。代々木公園で叩きたい。タイコ。足が痛いけど、明日辺り行こうかな。

 瞳が濁っているならば、傷つかなくて済むけれど、どうせ痛みには慣れてしまう。ちゃんと目を見開いて。そうしたら、タイコ叩いて阿呆なツラでも、それなりの時間が過ごせるような気がして。